2 鱗の生えた妃妾
大陸最大の領地を統轄する帝国
だが覇者となった皇帝が悪政を敷いた。
民は飢え、宮廷では血の嵐が吹き荒れた。
これに義憤した
先帝の死後、さらなる
《
秋から始まった地毒の禍は春になっても沈静のきざしはなく、地方で植物を腐らせ、家畜を蝕んだ。
飢饉で食物の値が昂騰するなど、地毒の影響は計り知れない。
帝都にもいつ《
帝都の東部には宮廷がある。
皇族や官職、宮女等を含めて約八万人が暮らす宮殿はその規模から小都とも称されていた。
そんな宮廷にひと際華やかな一角があった。
後宮だ。
後宮は春の宮、夏の宮、秋の宮、冬の宮に分轄され、皇后の次位にあたる《
宮廷の規模からすれば、さほど大人数ではない。
だが先帝がほとんど後宮をつかっていなかったことから考えると、皇帝が替わったこの六カ月あまりでいっきに華やいだ。
麗人ばかりを選りすぐって集めているのはもちろんのこと、庭から宮中の調度品に到るまで奢侈のかぎりをつくした、皇帝による皇帝の為の絢爛なる華の宮だ。
だが地毒の障りは、風水によって護られているはずの後宮にも確実に忍び寄っていた。
例えるならば、そこは絹の海だった。
彼女の名は
位は美人、
もとが絹を取り扱う
だがそれだけの襦裙や帯をもっていながら、
乱れた髪は濡れそぼり、眼も虚ろで生気を損なっている。時折金魚のように唇をはくはくと動かしているが、声にはならない。
身に張りついた湯帷子からは素肌が透けていた。
背に青あざのようなものが、浮かびあがっている。
――鱗だ。
艶のある青い鱗が、素肌を覆いつくしていた。
「ある朝、突如脚が動かなくなりました。水に浸かりたいと訴えたきり、喋ることもできなくなり……医官に診せても首を横に振るばかりで。いったい、娘はどうなってしまったのでしょうか」
診察を終え、食医――
「芙香妃を蝕んでいるのは《水の毒》です」
彼女は現在、十五歳という若さながら《後宮の食医》という役職についている。
もっともいわくつきの――ではあるが。
そのいわくのため、彼女に診察を依頼するものはかぎられている。
芙香妃の母親とて典医にも匙を投げられていなければ、慧玲に娘を診せたいなどとは思わなかったに違いない。
「そ、それは《
芙香妃の母がさあと青ざめた。無理からぬことだ。
昨今、世俗から離れた後宮にいても毒疫の噂を聴かぬ日はない。
毒疫はいかなる薬にもやわらげることはできず、いかに敏腕な医官でも治療することはできないという。
「左様でございます。水を異常に欲するところをみれば《木の毒》《火の毒》とも考えられますが、《木の毒》ならば乾燥が、《火の毒》ならば高熱が表れるはずです。芙香妃はいずれの症候もなく下肢に滞水による変異がみられるため、《水の毒》に相違ないかと」
「なんてこと……なぜ、娘がこんなことに」
(散らかりすぎだ。それに
絹の大敵はかびである。袖を通した後の襦裙は汗を吸っているため、
かびを吸い続けることで、滞った水の毒に蝕まれたのだ。
「ただちに《水の毒》を解く薬を調えます」
慧玲はいったん退室し、
「どうぞ、召しあがってください」
土鍋の蓋を取る。湯気と一緒にまろやかな酢の香りがたちのぼった。
「こ、これが薬なのですか?
粥というのは概ね、正解だ。
日頃の食は健康の基礎を造る。故に大陸には古くから医食同源という言葉があった。
毒に五種あるように、薬にも水の薬、火の薬、土の薬、金の薬、木の薬がある。食材にも然りだ。
(《水の毒》には水を吸収して
例えば、
いわば、薬膳だ。
(あとひとつ、素晴らしい薬効のあるものをいれているけれど)
緊張に震える指で匙を取った。
桶の縁に寄りかかって項垂れている芙香妃に差しだす。芙香妃は食欲などないと言わんばかりに眉を寄せたが、香りに惹かれたのか、唇をひらいた。
暖かな粥を啜る。
「っ……――」
刹那、
毒に侵されてから、彼女には絶えず渇きがあった。水を飲んでも、浸かっても、いっこうに収まらぬ強い渇きだ。
だが、この身がほんとうに欲していたものはこれだったのだ――
こぼれる涙からは、如実に感動が表れていた。
「おい、しい……もっ……と」
「あなた、声が……」
歓喜してさらに粥を差しだす芙香妃の母親に慧玲が助言する。
「粥の底にだしを取ったあとの骨があるので、よけてお召しあがりください」
芙香妃の母親は頷いた。
「あら、これですね。かたちからして、鶏の頚かしら」
「そのようなものです」
(ほんとうは今朝、捕まえた
昔、患者に教えたら吐いた。しかも盛大に。
知ったら最後、せっかくの食欲が失せかねない。
桶に張られた水に浮かびあがるものがあった。青い
芙香妃は緩やかに身を起こして桶からあがった。濡れ髪や湯帷子から雫がこぼれたが、絹の海が
「ああ、お母様……呼吸が、できます。歩け、ます」
自身が濡れることもいとわず、母親は芙香妃を抱き締める。
「奇蹟だわ……!」
芙香妃の母親が想わずこぼした感嘆の声に慧玲は
「仰せのとおりです。薬とは奇蹟をもたらす奇しき御力を備えたもの。されども薬は神から授かったものではありません。先人が創りあげた叡智の結晶にてございます。私は有難くも祖々の知識を継承した身です」
「貴方はいったい」
「ただの食医にてございます」
ですが、と続ける。
「私は、いかなる毒をも絶ちて、
そのときだ。芙香妃が悲鳴をあげた。
「いやああ! お母様……これ!」
土鍋の底に蛇の頭が沈んでいたのをみてしまったらしい。悲鳴が二重奏になる。
「やはり、
用は終わった、出ていけとばかりに房室から放りだされた。
(旨い薬を食べ、命も助かって、いまさら騙すもなにもないだろうに)
いっそ清々しいほどにてのひらを反されて、
毒も薬も理に則っているというのに、人とはなんとも不条理なものだと、いまさらそれを嘆くでもなく慧玲はため息を重ねた。
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