note.29 (ラーガって何だ?)

 二十三になったキングは旅行のガイドブックの通り、用心のために背中には大きなギターケースのみを背負い、他の必要な物はまとめて袋に入れて胸に抱えるようにしていた。


「あー……ええーっと、なんて?」

「背中のケース、それはギターだろう?」


 インドには来たばかりで、現地の人とのコミュニケーションはうまく取れた試しがない。

 そもそも、ここへは消極的な理由で飛んできた。ヒンドゥー語を学んでやって来たわけではない。


 キングは英語が話せるかどうか、片言で尋ねた。


「日本から来たのか。東洋人は見た目からの年齢が分かりづらいよ」


 それは己に言われても、と思うものの、それすら伝える術はない。

 英語でやっとやり取りが出来そうだとわかっても、母国語以外を扱うのは一朝一夕では難しすぎる。南インドの乾いた空気を吸っても、それは困難なことをキングは思い知っていた。


「背中のギターは、エレキギターだから、ここでは演奏できない。……わかる?」

「じゃあなぜ持っているんだい?」

「なぜって……」


(俺の居ない真っ暗な借家に置いてくるのは忍びなかったからだ……)


 そんな個人的な理由を、明るい日差しの中にさらすのは気が引けた。

 昼時を迎える路地は、巣にエサを知らせるありの群れなんかよりもごった返している。


 こんな他愛たわいのない会話を旅人とするこの現地の男性は、客の気を引こうとしているのか手元の楽器を見せる。


「これからは昼のラーガさ」

「らー……? なんだって?」

「ラーガ。朝は朝、昼は昼、夜は夜のラーガがある。その時に奏でる」

「はあ……」


(好きな時に好きな曲を弾くってことかな? いい生活してんなあ)


 キングは自らリングからドロップアウトしたようなものだった。

 地元の雪深い北陸を飛び出して、高校卒業とともに上京した。その時はそれで良かった。送ったテープが音楽事務所の返事を寄越したから。


 上京して、レッスンという名の養成所に通い、寮で暮らした。

 思い描いた自由は無いが、自分の歌を歌えない今を耐えれば明るい未来が待っているはず。そう思ってバイト三昧の日々を何とかしのいだ。家族の反対を押し切って、勘当されたも同然で東京へやって来たので、仕送りなんて親切なものは無かった。

 相棒は、高校に通いながらやはりバイトでなんとか中古で買えた、ギブソンのセミアコースティックギター。


(暗くて寒い富山……明るくて何でもあるのに何もしてくれない東京……たぶん、このオッサンも何も持ってない。でもこのオッサンは、今日も明日も音楽やっていいんだ……)


 羨ましい。


「聞いてくかい?」


 南インドの路地で出会った男性は、抜けてガタガタの歯並びを見せながら笑った。

 目の前の特等席で聞き終えたが、キングには男性の言うところの昼のラーガはわからなかった。


「夜もここにいるから、気が向いたらおいでよ」


 そう言うから、キングは屋台で食事を済ませて、夜も来た。


(朝は朝、昼は昼、夜は夜……そういうことか、朝昼晩で違う曲を弾いてるっぽい)


 夜の路地は少しだけ寒い。

 ぬるいさとうきびの飲み物を飲む。

 朝もその通りで売っていたさとうきびの飲み物を飲んだ。


 だがその昼。さとうきびの飲み物の屋台はいなかった。


(安くて美味うまくてまあまあ腹にたまるから丁度ちょうど良かったんだけどな)


 何も持たずに例の男性の元を訪ねる。

 昼のラーガを奏でる時間だ。


(……昨日とちょっと違う? 気のせいかも。いやでも、かなり複雑な音階の繰り返しだから、このオッサンがヘタクソなのか?)


 結局気になって、一週間は通い詰めた。

 自分でも馬鹿だと思いながら、またさとうきびの飲み物を持って訪れる。今度は違う屋台で買ったものだ。


(やっぱ違う。っていうか、毎日違う! 適当に弾いてるわけじゃなさそうだけど、朝は朝、昼は昼、夜は夜で違う。毎日ちょっとずつ……ラーガって言ってたけど、ラーガって何だ?)


「また来たのかい? 気に入ったんだねえ」


 そう言ってゆがんだ歯並びで笑う男性は、キングのさとうきびの飲み物を長い爪で指した。




    [▶▶ other track   ▶ play now]




「ずっとタダ歌聞かせてたの? 気前良すぎ!」


 ぷりぷりと小言を言いながらもフレディアのタオルケットを掛け直すのは、やはりリッチーの心根がさせるのだろう。しかしリッチーは我が国の第一王女からもキングの歌で金を取れると思っているのだろうか。


 昼前に突然やって来たその王女も、ぐっすりと寝込んで今は夕飯前だ。そろそろ帰さねばと思うものの、安らかな寝顔を見ると、起こす気も無くなる。

 それよりも誰も王女を探しに来ないことが気に掛かるが。


「別にいいじゃねえか。俺が息するのに、いちいち誰も金取ったりしねえだろ」

「ああ言えばこう言う。ったく、それ・・でお金もらってるの忘れないでね」

「わかってるよ。一応」


 夕方、旅人がバザールでくつろぐ時間帯をみて演奏を始める。

 リッチーにそう聞くより前からフレディアに歌を聞かせていた。


(リッチーの言う通り、本当は安売りは良くねえ。それは日本にいた時から知ってる。メジャーデビューはないけど、これでも俺の音楽でお金もらったことはあるし……路上ライブだけど。でも、俺は歌いたいときに歌えるようになるために、音楽を続けてんだ! 誰にも文句言わせねえ)


「キングさん、足の具合はどうですか? 薬効いてます?」


 予定では、明日にはこのバザールをつことになっていた。

 もともとここへは予定外の宿泊だったのだからなるべく早くに次へ行けるよう、リッチーは既に地図に道程を引いていてくれていた。

 

 次の目的地は――港町、アーリェク。


「ここを出て、アーリェクまでは街道入れば道なりです。人もいますし、魔物にも出くわしにくいでしょう。私は自分の旅に戻りますから」

「いろいろありがとうな、カレンさん……俺達と一緒にはやっぱり行けないか?」

「そうしたいのはやまやまですが、私も用事のある旅でして……」


 だよなあ、とキングは頬をいて苦笑した。

 二日間滞在したバザールだったが、カレンは旅初心者の身の上を個人的に心配してくれたに過ぎない。カレンにはカレンの事情があるのだ。


「カレンさんも無事で。旅の目的達成できるといいね」


 リッチーがすっかり慣れた手際で、ハーブ湯をカレンに手渡した。


「ええ。その時にはまた、こうして焚火たきびを囲みましょう」


 カレンの目元は見えないが、微笑みが小さな顔のシルエットを緩やかに変えさせた。


(カレンさんが僕達の旅に同行してくれたら心強かったんだけど、傭兵ようへいは他の町で探そう。そのためにも、今夜もお金を稼がなくちゃ……!)


 各々の思惑を秘めて、街道外れのバザールは今日も旅人をその広い懐に受け入れる。




(何か……聞こえる……これは私を呼ぶ、お母様の声――?)


 フレディアは昔の夢を見ていた。

 マーキュリー王国王妃であり、フレディアの母親。二つの顔を持ち合わせた偉大な女性が生きていた頃の夢だ。

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