第3話
本はタイトル順に棚に。
紙は白紙であればそのまま束ね、何か記されていれば端に書かれた数字の通りに。
チャックは一人黙々と、苛立った様子で片付けをし、いつもなら鳥や虫の鳴き声がするはずの外からは、主に命じられた使用人が、木の板を窓に打ち付けている音が響く。
「……それにしても、君は」
部屋の中にはルースもいたが、彼はベッドに腰掛け監視、いや見守っていただけで、終わりが見えてきたのでその口を開いた。
「好きなだけ書くことを許しているのに、何故、何回も逃げ出すんだい?」
「……」
チャックは答えない。
構わずルースは続ける。
「君が来て半月経つかどうか。もう両手両足全て使っても足りないくらい、君は逃げ出している」
「……大袈裟だ」
「いや本当だ」
嘆息し、腰を曲げ、足元に落ちていた紙を一枚拾った。
「少しは書いているみたいじゃないか」
「……っ」
チャックが溢した吐息には苛立ちが増しており、けれどその顔には、悔しさも滲んでいる。
紙に視線が向いている為にルースには見えていないが、それでも空気で、彼がどんな感情を抱いているかは分かる。
だが敢えて、
「そうだな、この『若き靴職人は花売りを抱き寄せ、勢いのままに唇を重ねる』のくだりは原作と変わらないから、ハグか微笑み合うだけにしてくれ。後、花売りも少し……パン屋の娘とかどうかね」
読み上げた上に、変更を要求した。
「別にそれくらい、そのままでも」
「駄目だ。こんな文章を若い娘や幼子に読ませたくはない」
「お嬢さんに、だろ」
「……まぁ、それもあるが、将来的には彼女だけでなく、多くの人間にも関わる」
「……」
チャックは手に持っている本に目を落とす。
色褪せた青色の装丁、そこには黒い文字で、タイトルと、作者の名前が記されている。
『溶けた氷は水に戻らぬ──ジェームズ・カルマ』
数々の名作を世に出し、数十年前にルース達が暮らすこの街で永遠の眠りについた、とある劇作家。
作品の多くは悲劇的な終わりを迎え、内容も暴力的かつ、性描写が過激なものばかり。
とても子供には読み聞かせられず、工場での朗読にも、若年者にはふさわしくないとされている。
その中でアースラが読んだものは、暴力的ではあるものの、性的な描写はほぼないので若年者が読んでもまだ大丈夫だろうと判断されていた。
「……何で俺なんだ」
本を見つめたまま、チャックは問い掛ける。
「俺以外にも作家を志す奴はこの街にはたくさんいる。その中にジェームズ・カルマを好きな奴もいるだろうさ」
「だから?」
「だからそいつに、あんたの望みを叶えてもらえばいいだろう」
「……」
黙り込むルースを見ずに、チャックは続ける。
「俺は、俺の物語を書きたい。好きに書いていいと言うあんたの言葉を、よく考えずについてきた俺にも落ち度はあるが、それでも──他人の物語の改変なんかに付き合ってる暇はないんだ」
指が食い込みそうになるほど、本を持つ手に力を込めていく。
「女子供が読んでも読み上げても問題なく改変なんて、そんなの何の意味があるんだと正直思わなくもないが、探せば賛同する奴もいるはずだ。だか」
「だがな、この街の作家志望者、それも奴を好きだと言う者は、きっと奴らしさを残すように努めると思うんだ」
至近距離からルースの声がする。
そう思った時には、チャックの尻は地面に打ち付けられていた。
痛みを感じる間もなく、襟を掴まれ持ち上げられる。
「がっ……!」
「──チャールズ・マーロウ」
その名前を耳にし、一瞬、チャックは息苦しさを忘れた。
それは、彼がこの街に来た時に、心に隠した名前。
一度も口に出したことのない本名。
「私がお前を選んだのは、お前が変えた奴の物語に、奴らしさが微塵もなかったからだ」
人間一人を持ち上げているというのに、苦しげな様子はどこにもなく。
ゆっくり、ゆっくり、ルースはチャックの服の襟を持ち上げていく。
「やめっ……」
「私はね、チャック。自分でできるなら、とっくにやっているんだ。だけど生憎、私にはその手の才能がない」
襟を、ルースの手を、掻きむしるように手を動かすが、チャックの狙いは外れるばかり。
「だが私は許せない。奴は生前、素知らぬ顔でメアリーの物語を踏みにじり、謝罪もろくにせず、さっさとあの世に逃亡した。……私が見惚れたあの怒りは、本物だったんだ……!」
意識を失いかけ、チャックはふと、その目を僅かに開く。
意味はない。口を開けるつもりが間違えただけかもしれない。
チャックの目には、ルースの表情がよく見えた。
紅の双眸は怒りに、いや殺意に燃え、歪めた表情はとても人間のものと思えず。
──その証拠に、開かれた口からは、異常なほどに発達した、鋭い牙がよく見えた。
ルース・ヴィリアーズ。
およそ七十年前、ふらりとこの街にやってきた男であり、その人柄の良さと強かさで商売人としてのし上がり、一気にその名を広めていった。
多くは語らない男だが、亡き妻との結婚の話が進んでいく内に、どこぞの領地を治める伯爵の庶子だという噂が語られるようになり、ルースもそれを否定することはなかった。
分かることより、分からないことの方が多い男。
特に──彼の年齢については、彼を知る人々にとって長年の疑問となっていた。
街に来た当初は、年相応と思わしき十代後半から二十代くらいの見た目だった。だが時が経ち、三十を過ぎてもルースの見た目は若々しいまま。老いを感じるようになったのは、きっと四十を過ぎた頃。顔に薄くしわができてきたが、三十代でも通じる若さがそこにはあった。
そして五十代、六十代と過ぎていき、今は七十代半ばと思われるが──ルースの見た目はどう見ても、五十代か、いっそ四十代に見える。
もしかして、人間ではないのでは?
そんな風に語られることも一度や二度ではないが、それがルースの迫害に繋がることはなく。
街から離れた屋敷で、可愛い孫娘と数人の使用人と共に、今日まで静かに暮らしている。
「あっ……」
チャックが声をもらすと同時に、掴まれていた襟が破け、またも地面に尻をつく。
今度は痛みをしっかり感じ、その場でのたうち回るチャック。
しばしその様を眺めた後、頭を強く振り、ルースは彼に手を差し出した。
「すまない、つい熱くなってしまった」
「……っ」
差し出された手を睨めつけると、チャックは自力で立ち上がり、首を擦りながら一歩後ろに退がる。
「……」
「……」
チャックの顔には怒りしかなく、ルースは静かに微笑んでいる。
「……君を選んだ理由は、もう一つある」
目を逸らさず、言葉を紡ぐ。
「君はアースラの為に奴の話をあんな風に改変したんだろう? あの子が教えてくれたよ、こんな結末嫌だと落ち込んでいたら、君がどうかしたのかと声を掛けてきて、理由を話したらすぐに違う結末を考えてくれたと。とても喜んでいたよ、ありがとう」
「……っ」
チャックが顔を背けても、ルースの視線はそのままで。
「それを聞いた時、もう、君しかいないと思った」
チャックとの距離を詰め、両手で彼の右手を取り──告げる。
「書いてくれ、チャック。もちろん君の物語にも協力するから、どうか私にも協力してくれ」
「……」
チャックは握り返さない。
かといって振り払うこともなく。
「……その言葉、違えるなよ。俺は既に報酬をもらっている」
「報酬?」
「あんたも見ていたはずだ」
そう言って、空いた左手で自分の腹を指差した。
◆◆◆
真面目に執筆しているのを見届けた後、ルースはチャックの部屋を出た。
四六時中彼を監視できるほど、ルースは暇ではないのだ。
貴族としての仕事はもちろん、チャックが改変を終えた後のことが。
劇の上演と本の出版を同時期にするべく、劇団や出版社の選別、劇場視察に市井の流行りを調べたり等。
チャックの執筆速度がどれほどか知らずとも、早めに行動して悪いことはないだろう。
「……メアリー」
誰もいない廊下、窓の傍に凭れかかり、外の景色を眺めながら出たのは、亡き妻の名。
「まさか実現できるとは思わなかった。あんな理想的な人間がいるとは」
うっすらと浮かべた笑みは、どこか冷ややかで。
「チャックの考えた物語だけが上演され、朗読されるようになるまで、十年か、それ以上か」
淡々としたその言葉に、耳を傾ける者はいない。
「奴の物語が、チャックの物語として塗り替えられるまで、百年か、それ以上か」
そんなことは可能なのか?
──不可能だとしても、ルースは力ずくで実行するつもりだ。
ルースの時間は誰よりも長い。
愛した女の口から、どんな裏切りを受けたか聞いたその時から、考えていた復讐。
それを止める女は、もうどこにもいないのだ。
「旦那様っ!」
ふいに、使用人の声と共に、慌ただしい足音が近付いてくる。
「どうしたのかね」
そう問いながら、返事は既に分かっていた。
「朝食と着替えをお持ちしましたら、チャックがその、脱走を」
「……分かった」
復讐の道は、長そうだ。
亡き妻へ捧げる復讐 黒本聖南 @black_book
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