第2話

 ただのチャック。

 家を飛び出した時、彼は本当の名前を心の底に隠した。


 着の身着のままその街に越してきたのは、とある有名な劇作家が活躍し、永遠の眠りについた所だったから。

 その劇作家はチャックにとって、全ての始まり。

 文字を教わり、劇作家が携わった作品を観たり読んだりするようになった頃から、将来は物語に関わる人間になりたいと志すようになった。

 自分の物語が世に出ることを願いながら、おしぼりを包装する日々。

 そんなチャックの日常が、ぼんやりとした人生計画が狂ったのは、彼の気まぐれから起こした善意。


 思い悩む少女の為、悲劇を幸福な結末にしていなければ──。


 彼はきっと、自分の作品に集中できただろう。


◆◆◆


 モンテクリスト子爵家の屋敷は街の外れ、林道を抜けた先にある。


 耳をすませば微妙に街の喧騒も聴こえなくはないが、鳥や虫の鳴き声に、風や風に揺れる葉の音など、自然音の方がそこでは大きかった。

 ルースが亡き妻メアリーとの結婚を、先代モンテクリスト子爵に頼み込んでいた頃から建て始め、無事に認められて式を挙げる頃には完成し、現在まで暮らしている。

 少し曇りがちだが、それでも雨は降っていない、とある朝。

 目が覚めた時から妙な音を耳にし、ルースは手早く身支度を調え、音のする場所へと向かっていた。

 屋敷内の一室、つい数日前、工場から引き抜いた青年に用意した部屋。

「チャック君、起きてるかい?」

 ノックと共に呼び掛けるも、中から返事はない。

 それ以上待つことも、呼び掛けることもなく、懐から古ぼけた金色の鍵を取り出すと、迷う動作もなく扉を開けた。

「──チャック君っ!」

 室内に彼の姿はない。

 あるのは、大量の紙と本。

 ルースが彼の為に用意した物だ。

 それらは辺り一面にばら蒔かれ、窓が開けっ放しになっている。

 ルースは慌てて窓に駆け寄り、目にも留まらぬ速さで閉めた。

「……言ったじゃないか」

 聞くべき当人は不在のまま、苦言が溢れていく。

「窓から外出する時は、きちんと閉めてくれと」

 まだ雨が降っていなかったのは、不幸中の幸いか。

 僅かに出た汗を手で拭い、臙脂色のリボンで一つに結んだ長い金髪が今ので少し乱れたので直すと、振り返り部屋を見渡す。

「……自分の不始末は、自分でつけてもらわないとな」

 嘆息混じりに呟くと、部屋の惨状はそのままに、足早にある場所へと向かう。

 目的の人物は、今はどうやらそこにいるらしい。


『あれ? 王子が好きになったのは、白熊の魔女さんですよね? 何で黒猫の魔女さんの元にお手紙が?』

『配達人が間違えた』

『えぇっ! ダメですそんな、お手紙は正しく届けないと!』

『王子は字が汚いからそう見えた、とか?』

『もー! ……でも、黒猫の魔女さんが代わりに届けてくれれば』

『実は黒猫の魔女は王子にほの字だったので、最初から自分宛てだったということにして、記されていた逢い引き場所に意気揚々と向かった』

『なーんーでー! でも待ってください、顔を見れば別じ』

『夜遅いし、顔隠してるし、魔法でそれっぽい声作ってる』

『ぬうっ!』


 近付けば近付くほど、楽しそうな会話は大きくなっていく。


『分かりました、こうしましょう。ロールパン二個あげますから、白熊の魔女さんとのハッピーエンドください』

『五個』

『二個です!』

『いやお嬢さん、あんたもう十個食ってるだろ。憐れな物書きに五個のお恵みを』

『私、何よりもロールパンが好きなんです、こればっかりは……』

『……なら、四個』

『……では、三個』

『よし、それで。無事に逃げ切ったら、必ず書こう』


「アースラ」


 愛する孫娘の名前を口にしながら、食堂の扉を開ける。

「……おじいさま」

 黒々とした瞳を大きく見開き、少女は入り口に立つ祖父を見つめる。

 広めに作られた食堂の、二十人は座れる長テーブルに、アースラと、用意された朝食しかそこにはない。

「おはよう、朝のお喋りは楽しかったかい?」

「おはよう、ございます。……あの、おじいさま」

 目を泳がせ、熟れた林檎のような色の巻き髪に触れながら、アースラは言葉を紡ぐ。

「私の声、そんなにその、大きかったですか? お喋りでもしてるみたいに」

「チャック君がいたんだろう?」

「……っ! ち、違います。まだ、見てないです。今度読む本の、練習を」

「食事中に?」

「……」

 俯いた孫娘を、その紅き双眸で一瞬優しく見つめたかと思えば、すぐに長テーブルへと冷たい視線を送る。

 染み一つない真っ白なテーブルクロス。

 二人分の朝食がある他、よく磨かれた燭台が数個置かれている。

「……チャック君」

 長テーブルに近寄り、クロスの端を持つと、

「君に言いたいことが二つある」

 一息に引っ張った。

「私の孫娘に嘘をつかせないでくれ。癖になったらどうしてくれるんだい?」

 卓上の食器や燭台は少し位置がずれたぐらいで、床に落ちることはなく。

「それと、次に窓から脱走した時、窓を開けたままにしたら塞ぐと、言ったはずだよ?」

 卓の下に隠れていたチャックの姿があらわになる。

「……何故、ここにいると」

「私は耳が良いからね。かくれんぼなら、音を完全に殺さないと、私に勝てないよ?」

「……っ」

 のっそりとテーブルの下から這い出ると、悔しそうな表情でルースを睨みつける、寝癖だらけの短い茶髪の青年──チャック。

「私としては、お遊びはお仕舞いにして、片付けと仕事を頼みたいのだが、君はまだ続けるつもりかい?」

「……そうだと答えたら、あんたか、暴力が大好きなあんたの友人達が全力で捕まえに来るんだろ?」

「屋敷から出なければ私だけが相手をするよ。彼らは屋敷の警備のついでに、仕方なく君に付き合っただけさ」

「ノリノリでボコられたぞ」

「手や腕は無事だったはずさ。それに日を跨ぐ傷は負わせていない」

「あ、の」

 二人のやりとりにおろおろしているアースラが口を開くと、ルースは優しく彼女の頭を撫で、柔らかな口調で語り掛けた。

「今日は朗読の日ではなかったかい? もう支度をした方が良い」

「……おじいさま、チャックさんとは仲良くしてくださいね。チャックさんも、その……」

 膝の上に置いていたナプキンで手を拭うと、立ち上がりながらそれをテーブルに置き、まだ何個か積まれたロールパンの皿を持ち上げると、チャックに近付き突き付ける。

「三個です」

「……」

 ロールパンとアースラを見比べた後、言われた通りにチャックは三個、その手に取った。

「あげたので、くださいね」

 それだけ言うと、アースラは二人に向けて一礼し、皿を持ったまま足早に食堂から出ていった。チャックはその背を見送らず、もらったロールパンをじっと見つめている。

「どうするんだい、チャック君」

 ルースの問い掛けに、答えたのはチャックの腹。

 かなり大きな音を合図に、チャックはパンにかぶりつき、ルースの視線も気にせずあっという間に食べ終える。

「……降参だ、連れていけ」

 やれやれと言わんばかりにルースは肩を竦め、チャックの手首を掴むと、彼の部屋へと共に向かった。

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