亡き妻へ捧げる復讐

黒本聖南

第1話

 ルース・ヴィリアーズが亡き妻との日々を思い返す時、一番に出てくるのが、彼女が出演していた舞台の終盤だった。


『王よ、王よ。どうかこの、卑しき女の浅はかな言葉で、その耳をお汚しくださいませ』


 国土拡大の為に他国への侵攻に力を入れ、その費用捻出の為に税を上げ、若ければ男だけでなく女すらも戦地に送った無情な王。

 しかしその実、利己的な臣下達の言葉しか王の元に届かず、それが国の為になると信じて命令をしてきた無能な王。

 そんな、悪辣なる王が主役の舞台。

 ルースの妻は、王が幼い頃より仕えてきた侍女の役。

 王のすることに心を痛めても、王のやることに口を出すことはなく、王の傍に居続けた女。


『貴方は、王ではない。ましてや悪魔ですらない。貴方はただの──神です』


 そんな女も一つだけ、王に請願していたことがある。

 女には愛する男がいた。

 身分に差がありすぎる為、想いを伝える気はなかったが、それでも、影ながらその無事を、生存を祈ってきた。

 それを確実なものとする為、王に愛する男を殺すなと、そうすれば終生貴方の味方で居続けると、そう伝えてきたが──守られることはなかった。


『自分の好きに手を加えられる自由がありながら、見ているばかりで何もしない。それを怠慢と呼ばず何と呼ぶのか』


 女は王に食って掛かる。

 怒りに歪めた顔で、声で、王の犯した罪を詰る。

 小さな身を更に縮こませ、感情を押し殺してきた彼女はどこにもいない。

 愛の為ならこの命、失うとしても惜しくはないのだと、彼女の目が訴えるのだ。


『王よ、いや神よ。──けして貴様を許しはしない』


 ルースはその瞬間、何も見えず、何も聴こえなくなった。

 彼女以外。

 余計なことは何も考えず、彼女の一挙手一投足に集中する。

 その首に剣の切っ先を突きつけられ、暗転し、最期の言葉を耳にするまでずっと。


『──この身朽ちても、貴方だけを想い続けると、この魂に誓います』


 急速に激しくなっていく鼓動、自身の胸元をわし掴むも意味はなく。

 気付けばルースは立ち上がり、暗闇の中、彼女の輪郭を追った。

 舞台の袖に消えても、照明がついても、周囲の客から咳払いをされてもずっと。

 連れに無理矢理座らされ、注意を受けた所で、彼の鼓動が緩やかになることはなく。

 ルース・ヴィリアーズはこの時、生まれて初めて他者に見惚れた。

 ──その後、彼はありとあらゆる手を使い、彼女を口説き落とし、どうにか身請けに成功。

 子宝にもすぐ恵まれ、元からやっていた事業にも更に力を入れていき、誠心誠意彼女と子供に尽くしていった。

 最期の瞬間まで、ずっと。


『おじい、さま』


 三つの棺にはそれぞれ、白い薔薇が一輪添えられている。

 中にいるのはルースの妻と、子供とその配偶者。

 馬車に乗っていた際に酷い事故に巻き込まれ、永遠の眠りについてしまった三人。

 ルースに遺されたのは、幼い孫娘のみ。


『アースラ……』

『わた、私が、いますから。さみしく、なんか……ないん、ですよ』

『アースラ!』


 本来自分が言わなければいけなかったことを、幼子に言わせてしまった罪を、ルースは永遠に抱え続けるつもりだ。


『お前が手を取りたいと思える相手と出会えるまで、ずっと傍にいるからな。だからどうか、ゆっくり大人になってくれ。淋しさを塗り替えるほどの熱に焦がれるその時までは!』


 ルースは力一杯彼女を抱き締め、彼女もそれに応えた。

 返事だとばかりに、強く、強く。


◆◆◆


「王よ、王よ」


 妻を見初めたその記憶を思い返したのは、その舞台の小説版を読み上げる、孫娘の雄姿を目にしているからだ。


「どうかこの、卑しき女の浅はかな言葉で、その耳をお汚しくださいませ」


 亡き妻によく似た面差し、舌足らずな可愛らしい声。

 ルースは想い人を見つめる少年のように、孫娘の朗読に集中する。


「貴方は、王ではない。ましてや悪魔ですらない。貴方はただの──神です」


 そこが劇場ではなく、とある街にあるおしぼり工場の包装部門だとしても。

 周りにいる工場の責任者達、それに何人かの作業員が、朗読に集中せず、自分の動向をこっそりと探っていようとも。

 ルースには孫娘在りし日の思い出しか見えていない。


「自分の好きに手を加えられる自由がありながら、見ているばかりで何もしない。それを怠慢と呼ばず何と呼ぶのか」


 ルース・ヴィリアーズ、またの名を、モンテクリスト子爵。

 ただの事業家だった彼が、実は子爵令嬢であった亡き妻の家に多額の金を渡して婿入りし、貴族となったことを良く思わない人間はそれなりにいるが、最初の頃に比べればずっと少ない。

 彼は傲らず、常に笑顔を絶やさず、時に下手したてに時に強かに、世を渡り歩いてきた。

 初めは彼を悪し様に罵る者も、彼の人柄に触れてしまえば、その日の夜には笑顔で彼と酒を酌み交わす。

 酒場や軽食屋等、数々の飲食店を経営し、他者の腹と心を、会話と食事で掴んできた彼を、ふざけて飲食王と呼ぶ者も。

 この日、業務提携しているおしぼり工場には視察という名目で訪れているが、本当は孫娘の朗読を聴く為にわざわざ予定をねじ込んだ。

 工場と劇場が多く建つこの国では、従業員の退屈防止と、新人役者や役者志望である子供の修行の一貫として、工場内でよく物語の朗読がされている。

 少し前に、ルースの工場視察についてきた孫娘が、朗読風景を目にして自分もやってみたいとしきりに頼んだ為、週に何度かこの工場で朗読をしており、色々立て込んでいた仕事をどうにか片付け、ルースは今日、初めて孫娘の朗読を聴くことができた。


「王よ、いや神よ。──けして貴様を許しはしない」


 ルースは口元に笑みを浮かべ、次の台詞を待つ。

 亡き妻に惚れるきっかけともなった、その台詞を。


「侍女は目を逸らさない。最期のその瞬間まで、王への憎悪を視線で刻みつける為に。王は表情を変えることなく、腰に提げた剣を引き抜き、その切っ先を侍女の首に突きつける。侍女は動かない。皮膚が裂け、血の雫が零れても、王から視線を逸らさない。王も侍女を見つめたまま、握る柄に力を込め、そして──剣を落とした」


 孫娘がそう言うと同時に、何かが落ちる音がした。

 ルースは自分の耳を、そして自分の目を疑う。

 孫娘の足元には、それまで彼女が持っていた本が落ちており、代わりに彼女は数枚の紙を持っていた。


「王は力いっぱい侍女を抱き締める。余はなんと罪深いことをしてしまったのか。か弱き娘を復讐の鬼へと変えてしまうとは。王の零した涙が、侍女の血と混じる。何をすれば鬼は娘に戻るのか。余を神だと罵るのなら、願ってくれ。罪の償いではなく、娘を救う為に」


 こんな話は知らない。

 王は容赦なく女の首を切り落とし、暴虐の果てに、自身の首を落とされて終わる。


「王の懇願に困惑するも、しばらくして、侍女はそっと抱き締め返し、その背を撫でる。そしてゆっくりとした口調で願うのだ。瞼を開けてください、耳をすましてください、その力を自分の為でなく他者の為に振るってください」


 こんな話は知らない。

 女は王を許さない、それが、脚本家の筋書きであったはずだ。


「玉座から降り、市井に身を投じてください。神が荒らした国の復興に協力してください。そうすれば私が眠る時、鬼ではなく人として、その生涯を終えることができるでしょう。……その後間もなく、別の者が王となり、先代の王は処刑されたと公式の記録には記される。そして、名もなき一組の夫婦は国中を渡り歩き、国の復興に尽くしたのだった」


 こんな話は知らない。

 孫娘は椅子から立ち上がり、一礼すると、真っ直ぐにある男を見つめた。

 彼は視線に気付かず、黙々とおしぼりを丸め、包装していく。

「……彼は、誰かな?」

 ルースは男に視線を向けたまま、隣に立つ工場長に訊いた。

「あ、あいつはその、最近雇い始めたチャックという奴で……休憩中の様子を見るに、どうやら物書きを志しているようです……」

「……つまり、改編部分はそのチャック君が考えたと?」

「アースラ嬢には、本来の話を語るようにと、お願いしていたのですが……」

「……」

 周囲の者は揃って青い顔をしている。

 おしどり夫婦と名高いモンテクリスト子爵夫妻の馴れ初めは、ルースの猛アタックの結果広く知れ渡っており、この物語がルースにとってどれだけ大切なものか知っているからこそ、この瞬間が訪れることを誰もが恐れていた。

 彼らの願いを聞かなかった孫娘は、軽やかな足取りでルースの傍に来て、邪気のない笑顔で問うのだ。

「私の朗読はどうでしたか、おじいさま」

「……最高だったよ」

「良かった! 最後の部分、あそこにいるチャックさんが考えてくれたんです! 素敵でしょう?」

 二人の会話を耳にする者達は、ルースの返答を震えながら待つ。

 ルースは基本的に、温厚な男ではあるが──笑みを浮かべて容赦のない行動をすることも、稀にあった。

 この瞬間、ルースは何の感情も顔に出していない。

「……そうだな。素敵だな、彼」

 じっと、チャックという名の男を見つめたまま。


 ──三日後、ルースは彼を従者という名目で雇うと、孫娘と暮らす屋敷の一室に、彼を閉じ込めた。

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