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 午後の授業が終わった。真面目には取り組んでいた、いたと思う。国語も数学も話の脱線が多い先生だった。楽しかったのは認める。オリエンテーションとして数Ⅰも数Ⅱも数Ⅲもない混ぜにしての数学ワールドの展開に、文法の具体例から広がる実際の用例集と詠み人の遍歴紹介。初回だから気楽な感じで進めますという言葉は正しかったけど、ノリにどう合わせれば良いのかもわからない初回の授業でついていけない話にうまくのっていけるほど私は器用ではなかった。クラスメイトも大半はそんな感じで、「次回からは基本からしっかり抑えていきます」という言葉にほっとしたような空気が漂っていた。二人ともノリもやり口も似ていたけど、仲いいんだろうか。先輩たちからの評判はいいらしい、という声がクラスのどこかで聞こえたからちょっと初回にはしゃぐタイプなだけであってほしい。

 帰りの支度をしている時にバス停まで一緒に、とか言い出す小野本さんが教室の外で待っている可能性に気づいて少し身構えたけど、特にそういうこともなかったし、遠巻きに眺められているような気配もなかった。意外と懐に飛び込んでしまえば大人しくなる子なのかもしれない。単にその発想がないだけかもしれないけど、なにか物足りない気持ちになった。小野本さんはたったの二日(と一年)で私の心の中にきっちりと立ち位置を確立していった。とりあえず小野本さんが私にとってのなにかになりそうな予感はしていた。


 帰りのバスはつり革の数も足りていないし、すし詰めとまではいかないけど隣の人に触れてしまうくらいには混んでいて、自分の立ち位置を確保しながら他の人に迷惑をかけないようにするのが疲れて、こういうのの積み重ねで心がすり減っていくんだ、と思った。人付き合いだとか、バスの揺れだとか、真面目な学生生活だとかですり減っていく心を癒やしていくなにかが欲しかった。身近で、すぐに摂取できて、適度な重さを持ちながら重荷にはならないようななにかが。新しく友達とか作ればなにか変わるんだろうか。友達自体は結構いるけど、最近は相手に気を使うことも増えてきて、なんとなく私が求める癒やしにはつながらない気がした。恋人も多分似たような感じになるだろう。バスに揺られながら私を癒やすなにかはどこにあるのかずっと考えていた。考えて、考えて、突然答えはこれみたいな感じで小野本さんの顔が浮かんで、いやいやと頭を振っていたら最寄りのバス停についた。唐突に元ストーカーの笑顔が浮かんだ理由を探すのはやめて今日は夕食と適当な動画でひとまずバスでの疲れを癒やすことにした。

 

 高校生活最初の一月は雪解けで増水した川が静かに流れを早めるように足早に、それでいておだやかに過ぎ去っていった。最初はそれなりに真面目に授業を受けて授業のペースに体を慣らしたり、休み時間にクラスメイトとの関係を築いて浮かないように気をつけたり、満員のバスでの立ち位置の確保に苦労したりで気が張っていた。でも、すぐに慣れてしまって後半は流れ作業のように授業やクラスメイトとのやりとりをこなしながらぼんやりと考え事をすることが増えた。高校進学はそれなりに大きなリセットタイミングだと思っていたのだけど、こんなものだったか。クラスメイトとの友情も薄くて柔そうだけど問題なく育めそうだし、案外なんてことなかったな、と何にも縛られない自由な日曜日との別れを惜しみながら振り返った。大抵のことが順調に流れていった。きっとこのままいけば大丈夫。小野本さんのことさえ考えなければ。

 小野本という名前を浮かべただけで心がきゅっとするようだった。彼女とどういう距離感で接していけばいいのかよくわからなくなってきた。私自身の気持ちの変化もそうだけど、私が望むほど小野本さんが近づいてきてくれないのが悶々とさせていた。

 お昼ご飯を食べながらの短い会話のキャッチボールは浅く踏み込んで来る小野本さんに私が適当に返す感じで終わってしまうようなものばかりだった。

「眞延さん、最近はまってることとかある?」

「動画見てる、適当な実況とか」

 とか、

「最近流行ってるあのゆるキャラどう思う?」

「可愛いと思うけどよく一緒に出てくる子のほうが好み」

 みたいな。どれもこれも牽制のような会話ばかり。もっとこう「好きな人はいますか」、とか「好きなタイプはどんな人ですか」とか真っ直ぐな好意を期待していたし、そういう質問への回答を考えていたからどこか拍子抜けした。惚れられたというのは私の自意識過剰な勘違いだったのかな、という弱気な気持ちが一瞬よぎったけど、小野本さんの過去の行動と、一月経とうとするのに未だに肩の力が抜けずにどこかぎくしゃくとしている彼女の雰囲気が否定してくれているように思えた。私の気持ちが徐々に小野本さんに侵食されていっているからそう思いたかっただけかもしれないけど。

 私は小野本さんに歩み寄ってこられることを期待しているらしかった。小野本さんからの好意を前向きに捉えてみると、なんとなく照れくさくて、ちょっとむず痒い気持ちになった。小野本さんの気持ちも、私のこの環状もそこら辺に転がっているありふれた「ゆうじょう」だとか「あいじょう」と同じように、すぐに薄れて消えてしまうものかもしれない。だけど私は、私にまっすぐ向けられていそうな友情とは違いそうななにかが、私にとっての癒やしとなってくれることを期待していたし、私が珍しく前向きに受け止めている自分の感情が、良い感情であることを願っていた。歪だった関係から生まれた気持ちだから、余計にそう思うのかもしれない。そういうのをおいておいても、彼女の隣に友達じゃない形で居る価値はあるような気がした。

 ただ真っ直ぐに向けられた感情にほだされて受け入れようとしてしまうくらいには私も案外惚れっぽいのかもしれない。好かれただけで好きになるようなちょろい女じゃなかったはずなんだけどなあ。恋も知らない初心な少女というわけでもない自分がそういうことを考えているという事実そのものが私を後押ししているようで、なんとなく一歩踏み出してみようという気持ちになった。

 告白とかじゃないけど、明日のお昼休みに関係が進むなにかを仕掛けようと決意して布団を顔までかける。頭の中で小野本さんにどういう話をしてどういう方向に関係を持っていこうかという作戦会議をしながら眠りについた。

 

 昼休みを告げるチャイムが鳴る。午前中の授業は寝不足なのもあって半分上の空で、手だけが動いて板書をなぞるようにノートを埋めているような状態だった。昨晩からずっと頭の中は小野本さんに対してどう仕掛けるかで一杯だった。先に授業が終わったらしい小野本さんが迎えに来る。戦いにでも向かうような気持ちがこみ上げてきて自然と胸が熱くなる。この一月の間にほとんど定位置のようになったベンチに腰掛け、昼ご飯を広げる。私はたまごサンドといちごラテ、小野本さんはいつも通りあんぱんとコーヒー牛乳。お昼を出して、頬張って、あらかた片付いたら話し始める。私達の昼休みはそうやってできていた。

 たまごサンドもいちごラテも、あまり味がしなかった。小野本さんの口元に自然と目が行った。意識しだすと急に恥ずかしくなって、それでも目をそらすことはできなくて、味のしないたまごサンドを咀嚼するのを忘れそうになるくらいに見入ってしまった。いっそ告白しちゃおうと思って挑んだほうが緊張しなかったのかもしれない。視線に気づいたらしい小野本さんが恥ずかしそうに目を背けて、沈黙を破った。

「眞延さん、わたし今日なんか変かな?」

 考えていたいろいろなものは全部吹っ飛んでしまって、うまく伝えようとすると入学式のときの小野本さんみたいなことになりそうだった。流れに任せて口を動かしてしまおうと思った。

「変じゃないよー。かわ――、んっと良い友達を見ながら考え事をしていただけ」

「今変わった友達って言おうとしてなかった?」

「してないしてない。たしかに小野本さん変わってるけど」

「言ってくれるなあ。でもそんなわたしに付き合ってくれてる眞延さんも大概変わってるからね」

「ん、自覚してる。私もまさか一年追いかけ回してきて同じ学校にまで入っちゃう子と楽しくお話できるくらいに変わってるとは思ってなかったけど」

 小野本さんの顔色が変わる。

「いや、やっぱり視線って割とばれやすいよね。小野本さんがずっと私のこと見てたの結構よく分かった。好きな人見るの、楽しいんだね。私もわかるようになってきたよ。小野本さん見ているの、楽しいもの」

 撫でるように、同時にひっかくようにつらつらと並び立てられる言葉。全部確かに心の中にあって、でもこういう言葉で伝えたかったんじゃなくて。それでも口は言葉を紡ぎ続ける。

「いつから……私のこと知ってて――?」

「顔しか知らなかったよ? 最初に気づいたのは中三の春くらい。そんなに学校近いわけでもないし塾の子ってわけでもないのに塾帰りにいつも他校の子が居るなって気になって。妙にすれ違うことが多いしさ。途中から塾帰りの時間に合わせて近くの店でポテト食べてたでしょ? 結構目立つよ、あの時間に中学生が一人でポテト食べてるの。いつも窓際だからどこ見てるかもわかりやすかったしさ」

 小野本さんが耳まで真っ赤に染まっていく。嗜虐心と辱めている罪悪感が胸の中で絡み合う。恥ずかしがっている小野本さんを見るのは正直すごく楽しい。でも、傷つけたいわけじゃない。口を動かしながら落とし所を必死に探す。こわくないよ、と微笑みながら問いかける。

「ね、小野本さん。私を追いかけてたのは、なんで? 私のこと、そんなに気になった?」

「……眞延さんのこと、ずっと気になってて、友達になりたくて、でも怖くて――」

 

「と、言いつつ私のことが好きだったから、とかだと私は嬉しいな?」

 一歩踏み出す。間違っていたら笑ってごまかせるようなずるい言葉で。小野本さんは何かを声に出そうと口をパクパクとさせて、首まで赤く染まった顔で目がグルグルと動いて、ぎくしゃくとした動きで顔を伏せて、首を小さく縦に振った。小さく泣きそうな声で欲しかった言葉が返ってきた。

「好きだよ、初めて見たときからずっと好き。友達がどうとかそういうんじゃなくて好きなの、眞延さんが。追いかけて、私のものにしたくて、でもそんな事言う勇気なんてなかったからただ追いかけて、必死に調べて。頑張って同じ高校入ってみたらなにか変わるかなって思って、近くにいるのが嬉しくて一緒の立場なのが嬉しくて、思わず声をかけてみたら友達になれて、嬉しかった。でも満足できなかった。ねえ、わたしダメだよね。眞延さんの側にいちゃ。わたしがダメなの。眞延さんの側にいるのに友達でしかいられないのが嫌でダメなの。ねえ、眞延さん、好きって言って? 嘘でもいいからわたしのことを見て?」

「そういうところ、好きだよ。小野本さん」

 小野本さんが顔を上げる。涙をうっすらと浮かべた顔が愛おしかった。

「本当はね、気づいてたの。小野本さんがそう思ってるんじゃないかって。思ってたより重くて、思ってたより深かったけど。だから、そんなに不安そうにしないで? 大丈夫だよ、私も小野本さんのこと、大事にしたいと思っているみたいだから。私は小野本さんのことまだ全然しらないから恋人とかはまだわからないけど、一緒に歩きたい。私たちは高校最初の友達で、それはそれで特別だけど、もっと違う特別になれる気がするから」

 小野本さんの瞳から涙がぽろぽろこぼれていった。頬を伝う涙をそっと指で拭った。

「ね、小野本さん。始めよう。友達以上恋人未満な関係。ううん、もっと楽しそうなのがいいな。小野本さんは私が好きすぎてつきまとうようになっちゃった悪いストーカーさんで、私はそんな小野本さんを好きになってついからかったり悪戯したりしちゃう悪女。ただの恋人よりもずっと楽しそうじゃない?」

 涙を流しながら小野本さんが笑ってくれた。

「眞延さん、眞延さんはやっぱり変わってるよ。ねえ、わたし、眞延さんのこと見ていていいの?」

「監視するのがストーカーじゃない?」

「やっぱりへ、変だよ。でもいいの。眞延さんがそれでいいならわたしそれでいい。ずっと見守ってる、ねえ、これからも眞延さんとお話していいの?」

 すがるように触れあうことに許しを乞う姿を、その表情を、私以外の誰にも見せたくなくて、小野本さんを抱き寄せた。

「大丈夫、大丈夫だよ、ストーカーさん。見守ってもいいし触れてもいいの。だから私にもあなたの事を教えてね」

 私より少し大きい背中に手を回してぎゅっと抱きしめた。言いたかったことは言えたし聞けたけど、自分が思っているよりもいろいろなことが大きくなってしまった気がした。なりたかった関係からも、少しずれたところに着地したようだった。でもどうでもよかった。ただ、制服越しに感じる小野本さんの体温の暖かさと涙の熱さが、私の欲しかったものだとわかったから。

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君しがらみとなりてとどめん 不尾レノア @foretnoire666

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