距離感
1.
入学式と簡単なオリエンテーションだけの金曜日が終わり、特に何事もなく週は明けて最初の授業日が始まった。
高校受験でそんなに背伸びをしなかったのもあるけど、授業は退屈でも難しすぎてあわあわする感じでもなく、ごく自然な時間として過ごせた。
クラスメイトとはまだあまり馴染めずにいる。無理に馴染もうというつもりもないのだけれど、一年の大半を一緒に過ごすわけだし、ほとんどの人は三年間大きなリセットのチャンスはないのだからある程度なじんでおかないといけないな、という義務感はあった。義務感に駆られて行動するかどうかは別問題として。
義務感で仲良くするなんて互いによくないってわかっているけど、私にとって大事なのは他人の心情じゃなくて自分の心の安寧だからしかたないし、仮に義務感を覚えるだけ覚えて動かなくても誰も傷つかないから問題ない、と誰でもない誰かに言い訳をする。神様とか、いたらこの懺悔を聞いてくれていますか。いないか。こんなことを考えながらmolがどうとかアボガドロ数がどうこうという話を聞いていた。中学化学から急に単位が大きくなりすぎて頭の中でうまく想像ができなかった。眼の前の空間に大量の原子が浮かんでいてそれの量を測るにはどうしてとかよりまだ人の心の安寧のほうが身近な話題に感じられる。ああ、眠いな。午前最後の授業が眠気と空腹に支配されるのは中学の頃から変わっていないんだな。
チャイムが鳴って、数分のロスタイムがあって、ようやく午前の授業から解放される。薬品臭い化学室から教室に戻ると、教室の前でそわそわと動き回る不審者のような同級生が居た。
初日から攻めてくるとはやるなあ、なんてやはり他人事のように感想が漏れ出た。彼女は彼女自身の欲望さえ満たされるなら私の心の安寧を脅かさないようにしてくれるだろうから、他のなにがお望みかもわからない相手と接する時と違って安心できる分他人事のような感想が出てくるのかもしれない。初期のストーキングによる安寧妨害のことは都合よく忘れてあげることにして、とりあえず声をかけてみる。
「私待ちかな、小野本さん。なんて」
「あ、えっと、うん、眞延さん待ちだから合ってる、合ってます」
クラス分けの時の会話に比べたらだいぶ落ち着いた感じの返事が返ってくる。
「そっかそっか。日くらい自クラスの面子と交流を深めて馴染もうという気概とかないかな、私は持ち合わせてないっぽいけど」
「おそろいだね」
「嫌なおそろいだなあ」
「で、自クラスの子と交流を深めたいとは特に思わない小野本さんは私とは交流を深めたいと。最初の友達はありがたいねえ」
「あ、いや、ちが、違わないしそうだけど、自クラスの子がだめとかそういうわけじゃなくってね」
軽くからかってみると初日の小野本さんが少し戻ってくる。ああ、落ち着く。やっぱり元ストーカーにはストーカーらしく不審者でいてもらった方が私にとっていいのかもしれない。
「わかってるって、大丈夫大丈夫。で、泣く泣くクラスメイトとの交流より私を優先してくれた小野本さんのご要件はなにかな?」
「眞延さんって結構いじわるだよね」
「善性の塊のような人間を捕まえておいてひどい言い様だー。まあ小野本さんいじるのが面白いのは否定しない」
なんどかいじっていると小野本さんが膨れる。ストーキングのし過ぎで私に慣れすぎて、会話の距離感が1回しか話したことがない相手とするそれじゃないのに気づいていないんだろうか。面白いからいいけど。
「ごめんってば。あれかな、お昼を一緒にとかその辺?」
「……そう、お昼一緒にどうかなって。購買とか気になるし」
膨れたまま恥じらいを含ませた返事が返ってくる。器用だなあ。
「いいよ、行こっか。あー……どこで食べる? 初日から他人の席占領は流石にきつい」
「えっと、じゃあ校庭のすみっことか」
「だいぶ浮かない?」
「えっと、あっと、じゃあ中庭、中庭のベンチ」
「あー、学校見学のときに弁当食べてる人とか居た気がするね。じゃあ中庭で食べよっか」
「決まりっ。じゃあ、購買行こ」
「はいはい、財布取ってくるから待ってて」
散歩に連れてけという犬を窘めてるみたいな会話だな、と思ったけど言わないであげた。それが優しさな気がしたし、そもそもそんなことを言える距離感では本来ないはずだった。元ストーカーと本来あるべき適切な距離感を保ちつつ接するのは意外と難しいのかもしれない。さっきも逸脱してたし。
財布を取り出し、眞延さんどこ行くのー、と話しかけてきてくれたクラスメイトに「友達とお昼」と返したら「クラス外の友達できるの早いー、コミュニケーション能力分けてよー」なんて言われた。はははと笑って「十分持ち合わせているから心配しなくて大丈夫だよ」と返す。この感じならなんだかんだクラス内のコミュニケーションは気にしなくても大丈夫な気がしてきた。長く薄く続く関係性で悩まなくてよさそうなのは良いことだ。
教室の前で背筋をぴんとさせた小野本さんが待っていた。背が高いなあって思った。おどおどあわあわしていている印象が強いからか普段はあまり気にしないけど、改めて眺めてみると見ると身長差が結構あった。だからどうということもないのだけど、自分に持っていないものを持っているのは素直に羨ましかった。
「お待たせ、小野本さんはなに食べる?」
「んー、まだ決めてないけど、多分菓子パン。甘いやつ。眞延さんは?」
「似た感じ。同じようなもの食べてるのにどうしてこんなに身長違うのかな」
「運動量の違いとかかな」
「部活なにやってた?」
「総合芸術部」
「なんだそりゃ」
「んー、公認帰宅部、みたいな?」
「帰宅部の私と変わんないじゃん」
小野本さんは首をすくめて、両手を小さく上げる素振りをした。
「わかんないね。後は家庭環境の違いとか? でも眞延さんはそのままでも良いと思うよ」
「慰めにも答えにもなってない言葉をありがとう」
ろくに中身のない会話をしていたら購買についた。レジ待ちの人だかりは組分け表の前のそれに比べれば整然としていたけど、やっぱり多くて、あまり好きにはなれなかった。
「人多いのって、小野本さん得意?」
「あんまり。人混み得意な人ってそんなに多くないんじゃないかな」
「次からは時間ずらそっか」
「そうだねー」
自然に次があることにしてしまったけど、次はあるのだろうか。小野本さん相手なら嫌でもある気もした。なんとなく無言で横並びにいるのが息苦しくて、適当に品揃えを眺めてあれはどう、こっちのほうがよくない、と場を持たせる。無言が心地よい関係にはなりきれていない。
小野本さんは無言でも気にしていないようだった。きっとストーキング歴の分だけ私に歩み寄っているのだろう。私達の関係性は見事に非対称だ。なんとなくもんやりとした気持ちになる。
完全に対称な関係性や適切な距離感なんて存在しないんだろうけど、相手が私に感じている距離感と私が相手に感じている距離感は、近いほうが関係が歪むことは少ないと思っていた。すでに歪みきっているこの関係にそんな一般論を適用していいのかわからないけど、少なくとも私は小野本さんとの距離感をうまく調整したいと感じているらしかった。
レジ待ちの長い時間が終わり、私はアップルパイとミルクティーを買って、小野本さんはあんぱんとコーヒー牛乳を買った。
中庭に出て、複数置かれたベンチの様子を見るとちらほらと上級生の姿があったけどそんなに埋まっているような感じでもなかった。まあ、一年生は特に何もなければ初日はみんな教室で周りの様子を伺いながら食べているだろうし、上級生も多分似たような感じだから一部の仲良しグループが教室から抜け出して食べに来ている感じだろう。空いていたベンチを見つけて、ここにしようかなんて確認を取って、食事を始める。もくもくと、もぐもぐと。半分くらいアップルパイをかじり終えたところで、本来なら私が気になるであろうことを直接聞いてみることにした。
「ねえ、小野本さん。なんでクラス分けの時、私に声をかけたのか聞いても良い?」
「近くにいたから」
用意していたようなとってつけた答えが返ってくる。実際そう言っていたからそういうことにしたいのだろうけど。
「駆け足で近寄ってきて『近くにいたから』は望んでいた答えじゃないかなあ」
ずっとストーキングしていた私に声をかけたかったから、という答えを知っている私からすれば別に聞く必要もないのだけど、とりあえずどういう答えが返ってくるかは気になっていた。
「あはは、流石に気づくよね。うん、嘘。本当はね、組分け表眺めるだけ眺めてさっさと教室に行っちゃうようなクールな感じが気になって思わず声かけてみたいなーって思っちゃって」
「ひとめぼれ?」
「一目惚れ、みたいなもんかもねー。なんか気になっちゃったし、クールで友達とかどうでも良さそうに見えてでも仲良くなれる気がしたからつい。わたしの勘、合ってたみたいだけどね」
頬をうっすら赤く染めて、はにかむように小野本さんは笑った。わかりやすい子だ、本当に。
多分私をストーキングしていたのも友達になりたいけど内気すぎて声がかけられなかった、じゃなくて私のことが好きだけどそんなの伝えられないから致し方なくってところなんだろうし、多分私のことは本当に一目惚れなんだろう。実際に一目惚れした時期は違うんだろうけど。モテる勘のいい女は辛いな、なんて自「虐」自賛する。
「うん、いい勘してると思う。実際私は優良物件だよー? 試しにお高めの壺とか買ってみる? 石でもいいけど」
「だめな子に声かけちゃったかなあ」
くだらない冗談に笑ってくれた。そういえば緊張しながらの笑みとかストーカーっぽいにやつきとかは見たことあるけど自然な笑みを見るのは初めてかもしれない。可愛くてずるかったからいじめたい気持ちが生まれたけど、いじめるための弾がないから消化不良になった。
いや、正しく言えば小野本さんがストーキングしていたことをいじるという弾は手元にあった。でもやめた。それを今撃ち出すと何かが崩れてしまいそうな気がしたし、このタイミングでいじってみてもそんなにつまらない気もするし、なによりこの歪んだ関係で私がそれを知っているという事実そのものがバランスを取っているような気がしたから。この弾はいつ撃ち出すべきなんだろうか。撃ち出さないのが正解なのかもしれないけど、楽しそうなものを与えられているのにそれを使わずにいられるほど自分は利口でない気がしていた。
アップルパイを食べ終わるとまた無言の時間がやってきた。会話の種を必死に探す。相手のことを知っている時間は長いけど、結局私たちはまだほんとうの意味で知り合って実質2日しか経っていない。手探りで会話の種を見つけて、相手のことを知って、適切な距離感をつかんでいく時間が私達には必要だった。
「小野本さん、授業どうだった?」
「んー、ちょっと背伸びして入っちゃったからちょっと不安かも。周りの子にも教えてもらえそうだし」
微妙に聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「小野本さんもう友達できたの?」
「ん? 友達はできてないかなあ。クラスメイトとして仲良くって感じにはなれたけど。休み時間に話してたら馴染めたよ」
素のコミュニケーション能力の差にめまいを感じた。私だってゆっくり普通の関係性を築けるくらいの能力はあるけど瞬発力に差がありすぎた。
「そっかー、羨ましい。私はまだおっかなびっくりって感じで一人二人と話せたくらいだよ」
「眞延さんなら大丈夫だって」
「できちゃう人の言葉だー」
そうか、小野本さんはもうクラスに馴染んだのか、と謎の敗北感を覚えつつそのままわいわいと話を続けていたら午後の授業の時間が近づいて来たから教室の前に戻る。
「楽しかったよ、付き合ってもらってありがとうね、眞延さん」
「そだねー。とりあえず購買行くかは別としてまた一緒に食べよう」
「明日もどうかな」
「たまにしようぜー、週2とか、週3とか」
小野本さんが露骨にしょぼくれたのがわかったけど流石に毎日付き合うような関係性にはなってないだろうと思ったし、なにより小野本さんと違ってクラスに馴染めていない私はクラスメイトと交流しないと浮いてしまう可能性もあったからひとまず彼女の意向は無視して日程を提案する。
「わかった、じゃあ月水金とかで。どう?」
「おーけーおーけー。それじゃまたねー」
「うん、じゃあね」
会話を終えて、席について、ふう、と息を吐く。予鈴の音が鳴り響く。
惚れられた強みもあるし小野本さんとの距離感はそれなりにうまく測っていけそうな気がしたけど、やっぱりまだまだ薄氷の上を歩いているような感覚があって、完全には気が抜けない感じだ。強みもそのまま関係性をぶち壊す爆弾なようなものでもあるわけだし。
クラスメイトとも交流していかないといけないし、適切な関係性の構築への前途は多難だなあと思った。1年とか3年とか、そういう長いスパンじゃなくてもっと気軽に関係性を築くのに失敗したらリセットできる感じだったらよかったのに、とないものねだりをする。
初めて見る先生が教室に入ってくる。まあ、人付き合いってそういうものか、と諦める。せめてリセットしづらそうな小野本さんとの関係だけは失敗しないようにしよう、と決心して午後の授業に真面目に取り組むことにした。
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