2日前
「ただいまー」
愛莉の手を引いた櫻子がアパートのドアを開けると、ダイニングテーブルに夫の蓮と義父が向かい合っていた。
「じいじ!」
愛莉は靴を脱ぐと一目散に義父に抱きついた。
「あいちゃん、おかえり」
もうすぐ六十になる義父は小さな板金塗装工場を営んでいる。機械油のしみのある上下の灰色の作業着姿だ。短い白髪頭が跳ねているのは頭にタオルを巻いていたからだろう。
テーブルの上にはビニール袋に詰められた夏みかんがあった。夫の実家の庭から持ってきてくれたのだろう。義父は膝に愛莉を乗せながら、徐に話しかけてきた。
「櫻子さん。何回も言うけど分かっとうね。うちの板金塗装工場をもっと稼働させて金作るから、あんたが働いてなくても苦労せんようにはする。蓮の兄貴が継ぐ予定だからもっといけるはずや」
「ええ……ありがとうございます」
櫻子は何度も聞いた言葉に口角を上げると、夫の蓮が間に入って急かすように言った。
「そろそろ帰れよ」
「ああ、遅くまで悪かったな」
「じいじ、また来てね」
愛莉の言葉に手を振りながらサンダルを突っ掛けて義父は出ていった。閉まるドアの音に、櫻子は何故だかほっとしてしまった。
「おかえり」
夫の蓮が改めて櫻子に微笑んだ。櫻子はただいま、と肩をすくめて返す。
蓮は同じ歳の中学の同級生だ。工業高校卒業後、自動車メーカーの下請け工場で働いている。蓮は一人親の義父に育てられた。櫻子とは中学時代はあまり接点が無かったが、成人式後の飲み会で互いにひとり親であることを知って意気投合し付き合い始めた。三年後の櫻子の誕生日にプロポーズされて結婚し、ほぼ同時に妊娠した。それが愛莉だ。
蓮の母は勤め先で不倫して義父と離婚したという。それから義父は母親が働くことに強い反感と偏見を持っているらしかった。
櫻子は愛莉が生まれた後も仕事を続けるつもりだった。しかし、そこで義父の激しい反対にあったのだ。
蓮は櫻子を応援して義父にきつく言い返した。義父はそれに呼応するように益々語気を強めた。日を追うごとに自分の事でどんどん険悪になる蓮と義父を見ていられなくなった櫻子は、遂に自分から仕事を辞めると言ってしまったのだ。
義父に理解してもらえないことは辛いが、それでも、櫻子は義父の想いの発端は蓮を思いやる心だということは理解していた。他界した両親にはもっと親孝行したかった気持ちがある。義父の考えは偏見とはいえ、蓮と義父にはずっと仲良くいて欲しい気持ちも確かに櫻子の中にはあったのだ。
「ごめんな、色々」
蓮の一言に込められた色々の意味を察して、櫻子は微笑んだ。
「ううん、蓮とお義父さんに仲良くして欲しい。愛梨もおじいちゃん大好きだし、それに私もお母さん生きてたらもっと大事にしてあげたかったし」
「……ありがとな」
「おとーさん、おかーさん。お腹すいた!」
愛莉が蓮の膝に座りながら言った。
「さ、ご飯にしよ」
櫻子は冷蔵庫を開けながら、二人に笑いかけた。
—
冷凍のカレーで夕食を済ませたあと、蓮が愛莉を風呂に入れてくれた。その後に一人ゆっくりと湯船に浸かって、櫻子は溜息ををついた。
100円ショップで買ったゴムのアヒルが湯船にぷかぷかと揺れている。櫻子はなんとなく手に取り、ぎゅっと押し潰した。ぷぎゃあ、と間の抜けた鳴き声が響いて、櫻子は思わず笑った。
蓮と愛莉との生活は幸せそのものだ。父が早くに他界し母に育てられた櫻子は、こんなささやかな幸せがこの世に存在することを知らなかった。これ以上一体何を望むというのだ。
それでも櫻子の中には、それに異を唱えるもう一人の自分がいる。仕事を失う事でその櫻子は消えてしまうらしかった。彼女は今もこうやって風呂の湯に溶けて少しずつ消えているのだろうか。
櫻子ははっとして、湯に浸かった自分の身体を確かめた。ちゃんとある。櫻子はもう一度溜息を付いて、肩まで湯に浸かり直した。
働いている自分以外にも、母親としての自分。妻としての自分。いろんな自分がちゃんと存在している。その内の一人が消えても、全員が消えてしまう訳ではない。
(それなのに、こんなに悲しい気持ちになるのはどうして?)
もし自分に、義父の言葉を振り払えるだけの我の強さがあったらと妄想することもある。
思ったことをずばっというタイプのみゆきなら、きっと突っぱねるだろう。けれど、櫻子にはそれが出来ない。櫻子が自分より家族を優先したのは、母がどんなときも、母より櫻子を優先して生きてきてくれたからだ。そんな母譲りの自分を否定したくはない。でも時折、自分にない力を持つ誰かが途方もなく羨ましくなる時がある。涙が出るくらいに。
(これでいいの。私は。私が我慢すれば、みんな幸せなんだもん)
家族仲を考えれば櫻子は仕事を辞めるしかない。櫻子が想うのは誰よりも夫と愛莉であり、亡くなった両親だ。だから、蓮にも義父が生きている限り仲良くいて欲しかった。
櫻子は爆発しそうな心を押し込める。今日の湯船に涙が流れ込んでいることを知っているのは櫻子だけだ。これは何の涙なのだろう。櫻子は考える。答えは見つからなかった。
(私は辞める。だから明日、最後にやる。辞めないと出来ないから)
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