3日前

 水曜の櫻子は個人宅を中心に周ると、早めに仕事を終え事務所に戻った。みゆきに引き継ぎをするためだ。

 ルートと顧客それぞれの好み。地域の地図を広げながらメモに書き出してみゆきに説明する。


「なるほどお、天気によって回る順番変えてんのね。めっちゃ参考になるわ櫻子先輩! なんてね」


 みゆきは膝を打ってあははと笑い、櫻子もつられた。櫻子が売上を上回った時も自分のことのように喜んで、子育ての相談も沢山乗ってくれた。


「私に代わったせいで売上落ちたら大変だもん。しっかりやるから安心して!」


 みゆきはそう言ってぐっと親指を立てた。櫻子はぺこりと頭を下げる。その瞬間、櫻子の心にすっと冷たい風が通り抜けた。


(私の持ち場が無くなるってことは、私が今までやったこと全部消えちゃうのか)


 櫻子は急に心にぽっかりと穴が空いた気がして、それ塞ぐように思わず胸に手を当てた。


 —


 櫻子が販売員になったきっかけは母だった。シングルマザーの母も乳酸菌飲料の販売員をしており、櫻子はその姿を見て育った。そして、高校卒業と同時に一切の迷いなく販売員となったのだ。そんな櫻子を母は心の底から喜んでくれた。

 早くに病気で亡くなった父の分まで苦労して櫻子を育ててくれた大好きな母だったが、愛莉が生まれてすぐに肺炎を拗らせて亡くなってしまった。


(もしお母さんが生きてたら今の私になんて言うかな?)


 答えの出ない問いを頭から締め出して櫻子は娘の愛莉を迎えに事務所の隣の託児所へ向かった。この会社は多くの支店が託児所を備えており、販売員は櫻子のように子育て中の母親が多いことでも知られている。

 三歳の愛莉には、帰りがてら期限の近い乳酸飲料を安く購入して娘に飲ませるのが習慣になっていた。託児所の前に止めてあったアシスト付き子供乗せ自転車に愛莉を乗せながら飲むヨーグルトのパックを手渡すと、愛莉が口を開いた。


「あいり、保育園さいごなの?」


「うん、来週から幼稚園ね。幼稚園の先生、愛莉のこと待ってるって」


 櫻子はすみすみぐらしのキャラクターが並んだヘルメットを愛莉に被せる。愛莉は納得していなそうな顔でストローを容器にぷすりと差すと、顔を上げて言った。


「これだいすきなの、飲めなくなっちゃう?」


「飲めるよ、スーパーでも売ってるから」


「ちがうの、おかあさんの自転車で飲むのが好きなの」


「……ごめんね」


 櫻子は何とか一言だけ搾り出した。胸がぎゅっと重くなる。

 自電車を漕ぎながら夕日の中で涙が滲みそうになって、櫻子は鼻を啜った。愛莉に悟られないように櫻子は注意深く、静かに鼻を啜った。

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