4日前

 平日二日目の火曜日だ。朝礼を終えた櫻子は制限速度を遵守してジャイロを走らせ、工業団地へと入っていく。


 櫻子が勤める営業所は工業団地の片隅にある。自動車メーカーの工場を中心に、関連部品工場が周囲を取り囲んでいる形だ。この地域では殆どの人がこの工業団地に関する仕事に就いており、櫻子の夫もその一人だ。

 櫻子は見慣れた景色を通り抜けて、坂上機工の事務所へと入る。自動車のシャーシを生産するそこそこ大きな工場で、櫻子は毎週火曜と金曜の二回訪れている。数えきれないほど訪れた櫻子の販売先の一つである。

 櫻子がジャイロを駐車場へと止めると中庭で喫煙していた社員が大きく手を振ってくれた。


「こんにちはー!」


 櫻子は明るく声を上げた。声に笑顔を込めることがコツだと教えてくれたのは他でもない先輩のみゆきだ。

 ここは櫻子がみゆきから引き継いだ販売先の一つだったが、来週からはまたみゆきの担当に戻る。商品説明やお釣りの計算などあらゆることを間違えた初日を思い出して、櫻子は思わず苦笑いした。辞めるからか、普段思い出さないことが次々心に浮かび上がる。


 櫻子は保冷バッグを肩にかけ建物に入り、二階の社員食堂へと足を踏み入れた。食堂は社員で賑わっている。社員は皆現場作業なので男性が多く、皆揃いの紺色の作業着姿だ。

 何人かの社員が櫻子に気がつき、早速商品をいくつか買って行ってくれた。


「櫻子ちゃん待ってた!」


 声をかけてくれたのは事務の山下だ。山下は定年後再雇用で、この工場で一番長く勤めているらしい。事務員の制服をきっちりと着こなし、ふんわりとした短い髪はいつもよく手入れされていて笑顔の皺が可愛らしい。六十過ぎとは思えない山下の溌剌さは櫻子にいつも元気を分けてくれた。


「いつものセット持ってきましたよ!」


「助かるわ。毎回楽しみなの」


 櫻子はお得意様には、相手の好みに合わせた飲料セットを事務所で事前に作って持ってきていた。こうすると客単価が上がるし、何より、喜んでもらえる。それはこの仕事における櫻子のやりがいの一つだった。


「旦那が最近便秘気味って言うんだけど、いいのあるかしら?」


「それならこっちの飲むタイプがおすすめですね。カロリーオフのりんご風味もあります」


「まあ、なら私の分も頂こうかしら」


「ありがとうございます。あと、今年も厳選素材の干し梅が入荷してます。去年もご購入頂いたので、山下さんに一番にお届けしたかったので持ってきちゃいました。今年の夏は例年以上に暑くなるらしいですし、気軽に塩分が取れて良いって皆さん仰ってくれて」


 主力商品は乳酸菌飲料だが、商品にはお酢ドリンク、ドライフルーツ、化粧品なんかもある。正直こっちの方が単価が高く儲かるのだが、無理に勧めて不快に思われれば一切を断られるようになる諸刃の剣だ。ここまで色々な商品を購入頂ける仲になったのは自分の工夫と努力の結果だという自負が櫻子にはあった。


「いつも気が利いて助かるわ。それも頂く」


「ありがとうございます」


 櫻子は山下に商品を手渡し、暗記している各商品の値段を電卓で叩く。電卓を見せ、手渡された小銭をすばやく検めてウェストポーチへと仕舞った。


「お、今日も来てるね」


 山下と櫻子の横で話かけてきたのは、今井副工場長だった。年は五十過ぎか。背がひょろりと高く、白髪まじりに無精髭の紺色の作業着の上下に黒い安全靴姿で肩にタオルをかけている。何となく作業着を着崩した感じがするのは初夏の暑さからだろうか。櫻子はつい自分が働き始めた当初をつい思い出すと、昔はもう少し小綺麗な印象があった。


「お疲れ様です。今井さんにもいつも持ってきましたよ」


「ありがと。いつも通り俺の部屋の小さい冷蔵庫に入れといて」


「分かりました!」


 今井は櫻子から商品を受け取ると、ポケットから小銭を取り出して櫻子の掌にちゃらんと落とした。その時手首から金のチェーンのブレスレットがしゃらりと揺れて光った。櫻子が小銭を数えている間に、今井は「じゃっ」と手を挙げて足早に去っていった。

 今井が歩き去って行ったのを確認してから、山下が腕組みをして訝しげに口を開いた。


「なーんか今井さん、最近やたら羽振りいいのよね。うちらはボーナスカットに給料カットで喘いでるっていうのに。よくどっか出掛けてるし、どこでサボってんのかしら」


「金のブレスレットなんてしてましたっけ?」


 櫻子が思わず尋ねると、山下は眉間に皺を寄せた。


「そうよ。おかしいわよねえ。コロナに物価高にで正直この会社全然いい話無いのよ。コンビニの方が時給良いくらいだから私も今後を考えちゃうわねえ」


「そうなんですか……」


 山下がそこで大きな溜息をつく。返答に困っていた櫻子を察したらしく、山下ははっと顔を上げてもう一度口を開いた。


「櫻子ちゃん、来週で終わりなのよね? 本当に残念」


「私も残念で。後任は先輩の森みゆきになりますので」


 櫻子は笑顔を崩さずに言った。退職が残念であることは櫻子の心からの本音だ。


「旦那さんのご実家厳しいのねえ。でも、櫻子ちゃんみたいなお嫁さんならお義父さん、嬉しい筈よ。元気だしてね」


 櫻子は山下の褒め言葉にはにかんだ。


「ありがとうございます。じゃ、今井さんの部屋に届けてきますね」


「はーい。じゃあまた、金曜日にね」


 山下が元気づけるように肩をぽんと叩いてくれた。

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