#5日後に退職する乳酸菌飲料販売レディ
萌木野めい
5日前
「じゃあ今日も一日、頑張りましょう!」
春の柔らかな日差しが少しずつ夏の気配を帯び始めた、五月の終わりだ。朝八時半に営業所での朝礼を終えた櫻子は十名の同僚たちと共にドアから雪崩出た。
営業所の前にはぴかぴかのホンダのジャイロが並ぶ。前後にたっぷりと荷台のある白の三輪オートバイだ。ボディの上で朝露が遠目に分かる程きらりと輝く。
この子が櫻子の相棒だ。朝礼を終えると同僚もみんなこれに乗り込んでそれぞれに戦いに征く。その光景が好きで好きで、櫻子はいつも頬が緩んでしまう。これが櫻子の一日の始まりで、櫻子が一番好きな時間でもある。
正確に言えば、好きな時間だった。
櫻子は座席を開けて取り出した雑巾で朝露を拭うと肩にかけた保冷バッグを前カゴに入れて座席に座り、ヘルメットを被った。糊のきいたチェックのスカートと若葉色のブラウスの制服。袖を通すのもあと数日だ。
「櫻子ちゃん、今月も売り上げ一位かあ。次こそ勝てるかなーて思ってたのにい」
頬を膨らませながら隣のジャイロに乗り込んだ先輩の森みゆきが言った。みゆきは櫻子が入社時に仕事を教わった先輩であり、今はこの営業所の所長でもある。四十代後半で大学生の子供がいる。柔らかな体格にボブヘアーに笑顔が眩しい。
「あはは……最後だし、頑張っちゃいました」
「ちょっとでも櫻子ちゃんに勝たなきゃ! お先ー!」
一足先に出発するみゆきに笑顔で手を振りながら、櫻子もエンジンを入れて出発した。
櫻子の仕事は乳酸菌飲料の訪問販売員だ。企業や一般家庭を回って自社商品を販売するのが仕事である。
(今日は月曜だから天馬ねじ工業さんの事務所、その後は五丁目と三丁目のお家だな。今週で最後だから皆さんにちゃんと挨拶したいな)
櫻子は信号待ちの合間に頭の中で改めて道順を反芻する。これから訪れる夏の配達は商品の鮮度も気にかける必要があるし、ジャイロでの配達はひたすら暑いしで他の季節と比べて圧倒的に辛い。しかしその辛い夏をもう一度迎えられないことは櫻子にとって決して喜ばしい事では無かった。
(辞めるのはもう決まったことだ。考えてもしょうがない。だから私は最後までちゃんとやろう。ちゃんと)
信号が青に変わる。櫻子は唇を引き結んでアクセルを回した。
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