1日前-1

 遂に櫻子の最終出社日の金曜日がやってきた。


(今日で最後。きちんとやり切ろう)


 決意を胸に朝礼を終えた櫻子は、最後の訪問先である坂上機工へと向かった。到着すると今井が櫻子の定位置で待っていた。櫻子が駆け寄って挨拶すると、今井が笑顔で手を上げた。


「すぐに車で会社出ないといけないから、いつも通り冷蔵庫に入れといて」


 そう言って今井は小銭をしゃらんと櫻子の掌に落とした。


「分かりました! お気をつけて」


 足早に去っていく今井を見送ると、櫻子は階段を登って三階まで上がる。工場長の部屋を通り過ぎ、奥にある今井の部屋へと来た。

 櫻子は、今まで誰にも言わずにいた事があった。


(山下さんの勘は正しいんだ)


 今井は不正をしている。自動車メーカーに部品を優遇する代わりに、その見返りとして自分の懐に賄賂を受け取っているのだ。

 櫻子が初めに不審に思ったのは、今井の部屋を訪れた時にパソコンの画面に表示されていたメールだった。

 宛名は自動車メーカーで、今井だけを呼ぶ会食の誘いだった。その後も週二回の訪問でデスクに置かれた通帳の振込先や書類を見る度に、それは確信に変わっていった。

 仕事で不正に得た金銭で楽しく生きる人がいる事は、櫻子に少なからず衝撃を与えた。櫻子は仕事は自分のやりがいと魂を込めるものだと信じていたからだ。


 この事実を晒せば今井は窮地に陥り、この会社の環境も是正される筈だ。しかし櫻子はこの事を一生黙っているつもりでいたし、今井にも客として誠実な態度を取り続けた。

 櫻子が口外すれば、櫻子は立場を利用して個人情報を盗み見たとして、櫻子の会社に迷惑がかかるからだ。


(でも私は仕事を辞める。だからばらす)


 櫻子は、ウエストポーチから震える手でスマートフォンを取り出す。櫻子は今井がデスクの一番下の引き出しに通帳を入れている事、その引き出しの合鍵がキーボードの裏に貼り付けられていること、通帳には自動車メーカーから今井の個人口座への振り込みの形跡が残っていることも知っていた。

 櫻子の販売員としてのきめ細やかな相手への配慮と洞察力が、全く違う方向へと発揮されたのだ。


 櫻子は日頃の在庫準備やお釣りのやりとりで鍛えられた澱まない手つきで、キーボードから鍵を抜き取り、通帳を引き出しから取り出す。通帳を素早くデスクの上に開くと、櫻子は息を止めて通帳に自分のスマホを向けた。


 タップしたスマホの画面が白く光り、かしゃり、とカメラ音が響く。その音が治るまで一秒にも満たない時間が永遠に感じられる。

 櫻子は秘密を手に入れた。

 その瞬間、何かが言いようのない冷たさを伴って櫻子の身体を一気に這い上がってきた。足から身体の隅々までが悪寒に支配される。櫻子は少しふらついてパソコンから後退りし、ごくりと唾を飲んだ。


(何とかして山下さんに見せよう)


 櫻子はこれが職を手放そうとする自分の、最後にして唯一の抵抗であると思っていた。しかしそれでいて、これは結局何に対する抵抗になるのか櫻子は分かっていなかった。

 義父か、夫か、世間か。それとも周りに抗えず職を手放そうとする自分自身なのだろうか。それとも何の意味もないただの強がりだろうか。

 自分から事件に首を突っ込むような行為に走らせるほどに、櫻子にとって仕事が大切なものだったことに櫻子自身が気がついていなかったのだ。

 それでもこれをやろうと決めたのは、とにかく何かに抗いたかった櫻子の心の奥底の何かだ。


(だって辞めるんだもん。大好きな仕事なのに)


 櫻子はスマホを持ったまましばし呆然としていると、背後で、急にドアが開く音がした。

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