1日前-2
櫻子がぎょっとして振り返ると、そこにいたのは今井だった。
「車の鍵忘れてさ。何撮ってたの?」
櫻子は慌ててスマホを持った手を下げたがもう遅い。体温が一気に下がり、どっと汗をかく。心臓の鼓動に圧されるように様にして体が震え出した。
「櫻子ちゃん。これ犯罪だよ?」
「あ、あの」
しどろもどろになりながら櫻子は涙を浮かべる。ここで今井に知れれば、大好きな職場と職場の人達に大変な迷惑がかかる。激しい後悔が櫻子の全身を揺らした。
今井は身動き出来ず固まる櫻子につかつかと歩みよると、櫻子のスマホを持った手首を強く掴んだ。
「っつ……」
櫻子は手を振り払おうとしたが工場長の力が強く抵抗できなかった。
「たかが販売員が」
櫻子はその言葉に言いようのない怒りが心の底から湧き上がった。全部の冷たい後悔が、櫻子の中で一気に怒りに変わった。
「たかが、じゃないです。私の大切な仕事なんです」
「でも辞めるんでしょ?」
その言葉に櫻子は堪え切れず、ふっと目を逸らした。確かにそうだ。そんな大切なものを最後まで守れず、櫻子は手放そうとしている。そこに説得力は無いのは明らかだ。ぽろりと涙が溢れる。
その時急にドアを叩く音がして、今井と櫻子は思わずドアを凝視した。
「櫻子ちゃんいる? 私まだ買ってなかったんだけど……って、え?」
明るい声と同時に開いたドアから顔を覗かせたのは山下だった。 山下は櫻子の手首を掴む今井を見るなり血相を変えて駆け寄り、今井の腕を振り払う様にして櫻子の前に立った。
「今井さん、何してるんです⁉︎ ハラスメントですよ!」
怯える櫻子とは対照的な山下の気丈な叫びに動じず、低い声で言った。
「櫻子ちゃんが俺の通帳の写真撮ってたんだ」
「え、本当なの?」
櫻子は山下の問いかけに涙を流しながら、力なくこくりと頷いた。
「その画像、私に見せてくれる?」
山下が櫻子の肩を抱きながら宥めるように言った。
「それは駄目だ。機密情報だ」
間髪入れずに差し込まれた今井の言葉に、山下が反撃する。
「社員の私なら見ても問題ないでしょう? だって私もう四十年も働いてるんですよ。私が知らない機密なんてあるはずないわ」
「経営戦略の秘密だ。事務員には教えられないこともあるんだ」
今井のきっぱりとした答えに、山下の眉がぴくりと動いた。山下は振り返り、震えた櫻子の眼を見つめる。櫻子は山下を見つめて小さく頷く。そのやりとりで、山下は櫻子から何かを察したようだった。
「ねえ! 誰か来て!」
山下が大きな声で叫ぶ。今井が慌てた様子で机の上の通帳を引っ掴むが、それを隠す前にドアから顔を見せたのは、隣の部屋にいたらしい工場長の深澤だった。
「工場長。通帳の企業秘密って何のことです? 今井さんが言ってるんだけど」
「え? 何のことだ?」
「今井さん、工場長が知らないって、どういうこと?」
「……」
今井は顔面を蒼白にして黙っている。
「今井君。詳しく教えてくれないか?」
「いや、それは」
工場長は眉を寄せて小さく溜息を付くと、神妙な面持ちで今井の方へ向き直った。
「山下さんと櫻子さん。席外してくれるかい?」
「はい。櫻子ちゃん。行きましょ」
山下は足元のおぼつかない櫻子の手を引いて部屋を出た。ドアが閉まる音を聞いた瞬間、櫻子はへなへなと床に座り込んでしまった。
「今井さん絶対おかしかったもの。これで成敗ね」
「私……ごめんなさい。最後に迷惑をかけて」
安心した櫻子が顔を覆うと、山下は笑ってとんとんと背中を叩いてくれた。
「櫻子ちゃん、知っててずっと黙ってたのね、で、今日辞めるからって」
「……はい」
全部悟られた櫻子は素直に頷いた。山下の勘はやはり鋭い。
「流石よ。それでこそプロだわ。人の家のことに口出すのは良くないと思ってたけど、あなたこの仕事続けた方がいいわ」
「無理です。お義父さんと仲悪くなりたくないんで」
櫻子は涙声でかろうじて答えを絞り出す。
「ねえ。あなたは気がついてないかもしれないけど、みんなあなたが頑張ってるのをちゃんと見てるわ。言葉にしなくても、あなたの毎日を見ていたら分かる。雨の日も風の日も笑顔で来てくれてたじゃない。それが答えよ。私に協力させて」
櫻子は涙を堪えられず、もっとぼろぼろ泣いてしまった。山下が笑う。
そんな中でも櫻子が考えるのは、次の販売先で櫻子を待ってくれているはずの人達の顔だった。
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