「ちょっとお引越ししましょうか」


 そんなことを言いだしたのは、ここで暮らし始めて1週間ほどたったころだったはずだ。何をするわけでもなくただ漠然の過ごしていたせいか、あまり時間の感覚は定かではないが。


「元々役割のために降りて来た話はしましたよね。ですが実は理由はもうひとつあって……」


 カリンが言っている役割、とは前に言っていた『人を減らす』というものだろう。


「と言っても、大したことではなくて」

「でもわざわざ移動するくらいなんだから、大事なことなんじゃないのか?」

「目的が大切、という訳ではないのです。ただそれをお願いした方が大事で」


 言い淀むのは、適切な言葉が見つからないからのようだった。あの方、なんて畏まった呼び方を見るに、彼女と同じように神――天に住まう御人なのだろう。


 初めて見る様子と大事な方、という言葉に表現しようもなく胸がざわつく。しかしこれをぶつけるわけにもいかないので、表情には出さずに話を逸らす。


「それでその目的って言うのは?」

「あぁ、人間ともっと関わる、というものです。私は他の神々に比べても、地上に降りることが滅多になかったのを心配されたのだと思います」

「人間と関わるって、神様にとって大事なことなのか?」


 ひとには神様と会話する機会が必要だ。救ってもらうため、怒りを鎮めてもらうために。

 しかし神々からすれば、人間の声など取るに足らないものでしかないのではないだろうか。


「他の神々にとっては大事なのでしょう。恐らく、私にとっても」

「女神様でも分からないことがあるのか」

「分からないのではなく、分かりたくないのでしょうね」


 何も考えず話してしまったので、また失礼なことを言ったと痛い目を見るのではないかと身構えたが、彼女はじっとりとしたため息を吐くだけだった。

 

 カリンは何もない空間で椅子に座るような仕草をして、空をふわふわと浮かんでいる。手元にはどこから取り出したか分からない、見慣れないカップが握られていたが、口をつけるつもりはないようだった。


「あなたも人では無くなったのですし、せっかくですから我々についてもう少し説明しましょうか」

「……不敬だって怒られたりしないか?」

「怒られたことがあるんですか?」

「子供の時に1度だけ。昔神様に無礼な問いかけをして殺された人間がいるからって」

「まあ、可愛らしい!でも過去の話はしない約束でしょう?今日は一日そうしていてくださいね」


 鈴の音を転がすような、涼やかで楽し気な声音でそう告げられたかと思うと、突然膝から力が抜ける。

 咄嗟に手をついて顔を床にぶつけないようにすることは成功したが、そのまま立ち上がることが出来ずに獣のように四つん這いのままになる。

 

 屈辱的な体勢のまま首を無理に上げると、楽し気に笑うカリンと目が合った。この状態をどうにかする気はもちろん彼女には無さそうなので、諦めて視線を下げようとしたが、己の意思に反して首は無理矢理上に持ち上げられる。


「ぐぇ」


 視線の先の彼女の手には赤い紐のような物が握られており、どうやらそれは自分の首に繋がれているらしい。

 いつの間に、というのは愚問だろう。というかこの程度で驚いていたら、とっくにびっくりしすぎで死んでいる。


「まず神々のほとんどは、世界に求められて生まれます。具体的には、人をより繁栄させるために。だから程度の差はあれど、多くの神々は人を好むように設計されているのです」

「く、首、首!とれるっ……!」

「もうっ!こらえ性が無いですね」


 カリンは再度紐を引っ張るが、今度は首が無理に引き寄せられることはなく、体ごとふよふよと浮遊する。

 そのまま移動させられ、娼婦のように彼女の膝の上に縋るように座らされる。これはこれでかなり恥ずかしい。体を離そうにも空中にいるので上手く距離を取れず、頭を柔く撫でられることで動きを制止させられた。とりあえず諦めた。


「世界とはこの惑星とも言い換えられます。世界は意思を持っていて、己の目的の為に人間を繁栄させようとしています。もっとも、その目的がなんなのかは私には関係ないことですので、聞かないでくださいね」


 世界だとか繁栄だとか、正直説明されても良く分からないが、とりあえず真面目な顔をして頷いておいた。この体勢ではちっとも様になっていないだろうが。


「ですから人間と関わることも、大事と言えばそうなのでしょう。必要だからというよりも、彼らにとっては趣味の方が比率としては大きいようですが」

「カリンは人が好きではないのか?」

「嫌いです。神々にはそれぞれ役割が与えられています。そして私には……」


 何度も言ってき非人道的なことを、彼女は今初めて言い淀んだ。それは決して死んでいく人々を慮ってではないのだろう。


「私は、病の神です。増えすぎた人間を間引くために存在しています。そんな私が彼らを心の底から愛しているというのなら、こんな行い、どんな理由があろうと耐えられるはずがないのです。だけど、私は、これが人の為になると知っている、これが必要なことだと躊躇なく行える。それなら、わたしは、人を愛しているはずが、無いのです」


 どうしようもない本音だと理解する。そしてこれは、誰かのための嘆きでもない。

 彼女は人を殺すことではなく、己の乖離に苦しんでいる。きっとどんな神々よりも人らしくて、同時にその傲慢は神らしくもあった。

 

 どうして彼女が俺をわざわざ人でないものに作り替えたのかも理解した。強迫的なまでに人を愛してはいけないと思い込んでいるからだ。


「彼らにとって、人と距離を取る私は理解できないのでしょう。……余計なことまで話してしまいましたね。この話はここでおしまい」

 

 そういうと彼女は見えない椅子からすっと立ち上がり、俺の体も見えない力でそっと床に下ろされた。依然として立ち上がることは出来ないが、落ち着かない体勢から解放されたことでほっと一息、する間もなく首を再び引っ張られる。

 

「ゔっ」

「せっかくですから本当に獣にでも姿を変えてしまおうかしら。以前だったら愛玩動物に興味なんてなかったのですけれど、最近はそう悪くはない気がしてきたんです」


 先ほどまでの悲し気な雰囲気は見る影もなく、俺の方もまぁこれで気が晴れるなら良いかと受け入れることにした。彼女が笑顔であることは、何よりも優先すべきことだろうから。





 

 引っ越しは次の日に行われた、というか、気が付いたら着いていた。神殿から出て外を覗いてみると、遠くに町が見えたのだ。

 どのくらい移動したのかは分からないが、少なくとも俺が最初に彼女と出会った場所の近くに町なんてなかった。


「今日は町の方に出てみましょう」

「カリンは目立つんじゃないのか?」

「そのことに何か問題が?」


 彼女は本気で気にしていないようだった。実際誰であろうと彼女を傷つけることはできないだろうし、こちらも自衛程度ならできるつもりではある。


「人と関わる目的で町に行くんだよな?」

「えぇ」

「だとしたら女神様みたいな異国の美人がきたら、びっくりして交流なんてできないよ」

「そ、そういうものですか」

「間違いない。だからせめて多少の変装とかは必要だろう」


 カリンはうーんと考えるそぶりを見せて、それからぱっと表情を明るくした。何かを思いついた顔に何事かと視線を向けが、ばさりと上から布がかぶせられ視界が遮られる。

 布を外すと、カリンは頭まで覆うことが出来る外套を身に纏っていた。おそらく自分が外したものも彼女が来ているそれと同じものなのだろう。


「いい?今から私は富豪の令嬢で、サクは令嬢に仕える従者なの。2人は愛し合っていたけれど結婚を許されなかったから、駆け落ちして旅をしてるの」

「わ、わかった」


 駆け落ち、と言う言葉からもうよく分からなかったが、勢いに気圧されて頷く。とりあえず恋人のふりをする、ということで良いだろう。


「人を減らすって言っていたけれど、この町の人は良いのか?」

「……?どういうことですか?」

「関わったことのある人を殺すのは忍びなくないか」

「いえ、特に」


 知り合いを殺すことも、そもそも人を殺すこと自体にも躊躇はないのだろう。きっとそれは彼女に限った話ではない。神とはそういうものだ。


 同時に、俺には理解のできないものだった。人を殺すことは罪だ。たとえ裁かれなかったとしても、一生をかけて償うべき咎だ。ましてやその相手が見知った相手であるあならば、相手が喜び悲しむという情動を持っていると身をもって知っているならば、尚更己を許してはならないだろう。


 俺が変な顔をしていることに気づいたのだろう。カリンはきょとんとした表情を見せて、それからこちらを慮るように言った。そして神様のやさしさは、やっぱり少しずれていた。


「あなたが望むのなら、減らすのは別の場所でも構いませんよ。生きるべきは、例え神がどうしようとも生き残ります。ならば誰を選ぶかは関係がないのです」

「神様でも殺せない人間がいるのか」

「えぇ、忌々しいことですが、世界に必要とされた人間は、殺せない、というよりも死なないように出来ているんです。人の世ではこれを運命というのでしたか」


 天命ではなく運命なのだと彼女は言った。そして世界によって生まれたものは、例外なく生まれたそのときから決められた道を歩むように出来ているのだと。


 忌々し気にも、諦めたようにも聞こえる口調だった。どこか安堵してる風にも見えるかもしれない。

 

「さぁ、そんなことはどうでも良いですから行きましょう!」


 彼女は粗末な外套を翻しながら、外に向かって駆け出した。表情は見えない。

 慌てて追いかけ外に出ると、懐かしい砂に足を取られる感触がした。いつも神殿の外に広がっていた木々は姿を消し、振り返ってみれば、自分たちが先ほどまでいた建物すら跡形もなく消え去っている。

 

 呆気に取られて足を止めると、手を取られ引っ張られた。深く考えるなということかもしれない。

 

 恐る恐る手を握り返す。己を痛めつけていたものとは同じとは思えないほど、華奢な指だった。そんなことはあり得ないと分かっているのに、うっかり力を込めたら折ってしまうのではないかと頭によぎる。


 手を引かれるままに町に着く。どうやら随分と栄えている土地のようだった。大通りにいくつか露店が設置されている。中には見慣れない何かを売っている店もあった。


 しかしカリンはそれらの店よりも、通りにごった返している人間の方に興味があるようだった。

 それは愛おしいものを見る眼差しに違いなかった。人が嫌いだなんて嘘だ。言葉よりもはるかに雄弁に物語るそれを、しかし指摘するつもりにはなれなかった。


「お兄さん!ちょっと覗いていかない?安くするよ!」


 呼び止められて振り返る。自分と同じくらいの年の少女が、商品の乗った台に手をつき身を乗り出していた。

 意図せずして当初の目的は果たせそうだ。彼女の目深にかぶった布のせいで表情はよめない。しかし軽く引かれる手の感触からして、嫌がってはいないのだろう。


「お兄さん、あんまこの辺で見かけないね。行商人ってわけでもなさそうだし、もしかしてお忍び?」

「おい、客の事情にあんまり突っ込むんじゃねえよ。すみませんねぇ、そそっかしい娘なもんで」


 髭を蓄えた老人がひっそりと佇んでいることに、声をかけられて初めて気が付いた。善人らしい笑顔を浮かべてはいたが、同時に気弱そうな印象も受ける。恐らく店番をしているのはもっぱらこの娘のほうなのだろう。

 

 商品を改めてよく見てみると、自分が今まであまり見かけたことのない物ばかりかと思えば、よく見知った物もあり、一貫性のない雑貨やら装身具やらが並んでいた。商売というよりも趣味と言われた方が納得する品揃えだ。


「花か、珍しいな」

「お客さんお目が高いね!ちょっと値は張るけど別の店でも滅多に手に張らないよ」

「それでもって日持ちもしないし実用性のあるものでもない。要は売れ残っているんだろ?それなのにこの値段は不適切じゃないか?」

「いやいや~、これもお金持ちの皆様には絶賛の品ですよ?」

「この辺は栄えてるし確かに大富豪なんかが暮らしててもおかしくないけれど、それこそ金持ちに品物を紹介できる商人はこんなところで露店やってないだろ」

「ぐ、ぐぐ……」


 何か言い返そうとして、思いつかないので唸り声をあげているらしい。自分は口が上手いほうではないが、値引き交渉くらいは出来る。

 

「この花と……あとこれ、合わせてこのくらいの値段だったら買おう」

「はぁーっしょうがない。お兄さん、そんな良いもの連れてるくせに以外とケチだね」


 もう今後使う予定もないだろうと思っていたお金と商品を交換しながら、恨みがまし気な顔でそう言われてしまった。

 良いもの、の意味が分からず数秒きょとんとしてしまったが、手のひらの感触を思い出して隣で黙りこくっているカリンのことを指しているのだと理解する。お忍びかと問われたが、当初の予定とは反対に俺が主人で彼女が従者だと勘違いしているのだろう。


「それは違う。彼女が俺のものなんじゃなくて、俺が彼女のものなんだ」


 受け取った白くて華奢な花を見つめながらそう言って、それから身をかがめてカリンと目を合わせる。

 この人間との関わりとも呼べないささやかな出会いが、彼女にとってせめて良い記憶であるように願うことしか自分にはできない。

 黒髪に花をさす。彼女にとってはなんてことのないものかもしれないが、それでも何か自分の手で選んで送りたかった。これがせめてもの証明になれば良い。


「そろそろ帰ろう。もう疲れてきただろう」


 今日が良い記憶であるように、と心の底から願っている。だからもう、これくらいが丁度良いのではないだろうか。人間の尺度でしかないけれど、やっぱり親しくなった人間を殺すのは、好ましく思った空気を壊すのは、苦しい。


 彼女の手を引くと、抵抗もなくついてくる。肯定の意思だと受け取って、そのまま俺たちは町を出た。神殿に帰ってからも、しばらく彼女はぼうっとしていたけれど、大きなため息を吐いたのを皮切りに口を開いた。


「結局誰とも関わらずに帰ってきてしまいましたね。あなたにも迷惑をかけてしまったかもしれません」

「俺のことはどうでも……」

「それでも!私は、あなたが私の物だと言ってくれて、花をくれて、嬉しかった。とても、感謝してます……」


 段々と尻すぼみになっていく言葉に、無礼だとか不敬だとか、そういうことが全部頭からすっぽ抜けてつい彼女の手を掴む。お互い座り込んでいたので、石床と己の手でカリンの手を挟むような形になってしまった。


「嬉しかったのか?本当に?ほんとうのほんとう?」

「えぇ。女神のくせにこんな程度でって笑ったりしないでくださいね」

「しない。女神さまが喜んでくれたなら、俺も嬉しい」


 彼女が超然とした、心のない存在などではないことを知っている。人と同じような善や悪では生きてはいないのだろうけれど、悩みもするし苦しみもすることを知っている。

 だったらそれだけで、俺が彼女を大切にしたい理由も、幸せになってほしい理由も十分だろう。

 

「サク、あなたは……」

「なに?」

「……いえ、何かご褒美をあげたいなと思ったのです。欲しいものはありますか?」

「急に言われても」

「すぐに答えを出さなくても構いません。思いついたら教えてください。私もしばらくここを離れなければいけなくなったので、その時にでも考えていなさい」

「離れる?」


 役割も果たしていないのに、しかも一人でどこかに行くのだろうか。尋ねれば私用とだけ教えられた。行く場所も天上なので俺を連れて行くと他の神にちょっかいかけられそうで嫌だ、とも。


「ここから町へはあなた一人でも自由に行き来できるようにしますから、自由に過ごしていてください」

「いいのか?」

「はい。あなたはうっかり屋さんではありますけど、意図して私から逃げようとはしないでしょうから」


 信頼されるのは嬉しいが、警戒を解くのが早くないだろうか。もしかしたら逃げていても契約していたら居場所が分かる、みたいなことがあるのかもしれない。

 とりあえず礼を伝えれば、カリンは寂し気に微笑んだ。彼女が出かけていったのは、それから数日後のことだった。






 

 カリンの目が無いのを良いことに、というわけでもないが、彼女が居ない間は時々町に遊びに行っていた。神殿の中には娯楽と言う娯楽も無く、話し相手もいないから。

 ただ店の冷やかしをする日もあれば、時折手伝いをして礼として物や賃金をもらうこともあった。

  

 きっとカリンは俺が望めば彼らを殺さないだろうし、俺は誰かを、特に親しくなった人を殺したいとは思わない。

 だけど彼女の葛藤を乗り越えるのを助けたいと思うのなら、ただ安寧を受け入れるだけではいけないだろう。そもそも己の知らない人間だからといって、彼らが極悪人であるわけでもない。俺が手を下すわけでもないし、これが罪ではないとしても、彼女の心に少しでも寄り添えたらと思うのは傲慢だろうか。


「おーい、兄ちゃん!あんた最近ここらで出入りしてる奴だよな!」


 気の好さそうな青年は、確かに自分目当てで話しかけて来たらしい。しかし彼とは話したことはないだろう。

 そうだと返事をし、何か自分に用なのかと尋ねれば、彼は店を手伝ってほしいと言った。自分が別の店の手伝いをしたことを誰かから聞いたのだろう。二つ返事で了承すれば入り組んだ路地裏の先に案内された。

 

 途中でおかしなことには気づいていたが、かといって逃げようとして暴れられたりしたら面倒だ。それに逃げ出した結果追い付かれて、女神のいない今の神殿の中に入られたらどうなるか分からない。

 店というよりも家と言ったほうがらしい佇まいの建物の中に入ると、初めてこの町を来たときに花を買った露店の女が居た。


「こいつか?」

「えぇ、そうよ。わかったら帰っていい?」


 店先に居たときからは想像も出来ないほど刺々しい声音でそういうと、彼女は返事も聞かずに出て行ってしまった。最後、わずかに心配げな視線を寄こされた気もする。


「それじゃあ確認もとれたし、兄ちゃん、あんたに一つ聞きたいことがある。あんた、悪魔と契約してるのか?」

「は?」

「あんたが来たって日から数日後から町で不幸が続いてんだ。兄ちゃんのそのおかしな目、それに紋様の入った舌、ただの人間じゃないだろ。だったらあんたと一緒に居たっていう白い肌の女が悪魔なんじゃないのか」

「……彼女は悪魔なんかじゃない」

「はは、契約じゃなくて崇拝でもしてるのか?」


 この不快な男が、どういう思考回路をしているのかは分からない。分かりたくもない。だけれど先ほど出て行った彼女の態度を見るに、この町の人間がそう思っているという訳ではなく、男が特別変なのだろう。


「言いがかりをつけに来ただけなら、もう帰らせてもらう」

「はいそうですかって通すと思ったのか?」


 目の前の青年は嫌な笑みを浮かべて、ふんぞり返っている。瞳は淀んでいて、どうしようもない翳りが滲んでいる。


「お前がいなければあいつが死ぬことはなかったんだ。だったら、お前を殺せばあいつは」

「人間に死者は蘇らせられない。何があったか知らないが、俺たちを巻き込むな」

「うるさい!黙れ!自分が死にたくないというのなら悪魔を呼び出せ!俺が殺してやる!」


 半狂乱の男の拳で頬が殴られる。痛みはあるが、それだけだ。軽蔑を込めた視線を投げれば、男は再度拳を振り上げる。俺は何故か恐れることもなく、その様子を他人事のように見つめていた。


「――私に会いたかったというのなら、供物の用意をするのが道理でしょう?」


 しかしその拳はぴたりと動きを止める。突如現れた女神のような――事実女神なのだけれど――女性に呆気にとられているらしい。

 しかしその特徴が例の『悪魔』と一致していることにすぐに気が付いたのだろう。

    

「何故私の物に手を出したのか、答えなさい」


 狂人に神の声は届かない。男は高笑いをあげ、部屋に置いてあった大振りな刃物を掴み振り上げる。

 そしてこの時の俺は、彼女が死ぬことなどないと思い込んでいた。神は人の手によって地に降ろされることはないのだと、信じていた。


 彼女は逃げない。動かない。凶器が振り下ろされ、そのまま――――そのまま、彼女の首が落とされた。


「は……?」

「やった!やったやった!はは、はははは!!」


 びしゃり、と何かの液体が顔を濡らしている。夥しい血の量の中、落とされてなお美しい彼女の顔が転がっていた。

 狂った笑いを上げたままの男も同様に血に塗れていて、そのまま彼女の頭に手を伸ばしたから、考えるよりも先に体が動いた。


 思い切り突き飛ばして彼女の頭を奪いとる。

 殺してやりたい、許せない、理解できない。

 しかし今は気を失ったのか物言わぬ寝転がっている男のことなどどうでも良い。


「う、うぁ、あ」


 膝をつき、女の生首を掻き抱いて、声を上げて泣く。みっともないとか恥ずかしいとか、見られて恥ずかしいと思う女の瞳は伏せられている。もし彼女に見られたとしても、もうすでに泣き顔は見られているので特に笑われたりはしないのかもしれない。

 でも彼女が今の自分をみたら、きっと愛しい物でも見るように笑って、それから、きっといつも通りに。


「もう、本当にサクは泣き虫ですね」


 すぐそばから聞こえた耳慣れた声に、慌てて視線を向ければ、カリンは俺の膝の上で寝転がっていた。

 こんな粗末な場所で寝かせてられないので慌てて頭を離せば、彼女はうーんと伸びをした。


「い、いきて」

「まぁ!この程度で死ぬと思われていたなら心外です。ですが、それを見越して殺したと思ってた相手が生き返ったら驚いてひれ伏させる作戦を立てていたのも本当ですしね。だけどあなたったら、あの人間失神させてしまいましたし」

「よかった……」


 深く息を吐く。なんだか初めて呼吸ができた気分だ。


「じゃあこの男も本当に失神してるだけなんだな」

「今は生きていますよ。私の血を浴びたので病に侵されて死にますけど」

「……え?」

「この人間にはこのまま生き残ってもらいます。それで彼を起点にして、これから町に病を流行らせる。当初の予定の通りに。……嫌ですか?」


 嫌か嫌ではないかと問われたら、当然嫌だ。だけれどこんなことを繰り返していたら、彼女は役目を果たせない。そんなことは存在意義の否定と同義だ。


 俺が黙ったのを悪い風に解釈したのか、カリンは悲し気に視線を伏せた。


「あなたと離れている間に言われたんです。私はあなたのことを愛してなんていないんだって」

「……それは」

「私は私が手放しに愛せる誰かが欲しかった。その誰かは私を愛してくれる相手がよかった。それでも良いと思っていたけれど、これじゃ駄目なんですよね?これは、愛じゃないんですよね?」


 要領を得ない説明だった。それでもひとつひとつ整理して、積み上げて、丁寧に紐解いていく。

 そうして一つ分かったのは、彼女が難しく考えすぎているということだけだ。


「カリンは俺のことが好き?」

「好きです」

「じゃあそれ以上のことって何か要る?俺も女神さまが好きだし、何も問題なくないか?」


 周りがどうとか、好きの形がどうだとか、そんなものに左右されるくらいならとっくの昔に逃げ出している。

 俺は好きで彼女の側にいて、彼女も俺を気に入っている。これは純然たる事実だ。


「私は、貴方との乖離が、運命というものが恐ろしいです。もし、あなたのその気持ちが運命だと――初めから決められていたことで、回避不可能なだけのことだったとしたらどうしますか?」

「……あんたの言葉はいつも難解だ」


 彼女は弱気に目を伏せてみせたが、到底か弱いだけの少女の姿とは言えなかった。それでも手を取って気持ちを伝えて、隣に立ってやりたかった。

 ただ好きだからそうしたい。それじゃあ駄目なんだろうか。


 彼女の不安は高尚すぎて俺には理解できない。


「自信が無いならいくらでも待つよ。その間に俺が一生かけて愛を証明する」


 懐から小箱を取り出す。初めてこの町に来た時、花と一緒に買ったものだった。


「貰ってくれるか?異国では結婚の申し込みのときに、装身具を渡すらしい」

 

 指輪というらしいそれは花が象られている。全く知らない場所の風習だったけれど、だからこそ俺たちには一番ふさわしい気がした。


 彼女は永遠に枯れない花みたいに微笑んだ。本音を言うならば、俺はこれが運命であればと願ってやまないのだ。 

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