日差しに溶ける
位月 傘
上
女性の裸を見たのは、これが初めてのことだった。命からがらたどり着いたオアシスには先客が居て、まるで作り物のように美しい女性がこちらに背を向けて水の中に立っていた。
照りつける太陽の下で育ったというにはあまりに不自然な肌は、白いというよりも透明だった。よく手入れのされた長い黒髪だけが、この地の女性であるということを証明している。
声をかけるなり、立ち去るなり、どちらにせよ何か行動を起こさなければならない。そう分かっているのに、彼女を一目見た瞬間から、指一本己の意思で動かせなくなってしまった。
濡れた黒髪が揺れて、こちらへ振り返る。かんばせまで、一点の曇りも陰りも無い女と目が合った。
「不敬ですよ」
未だに目が離せない。理由はいたって単純で、有り体に言ってしまえば、一目惚れだった。この畏怖すら覚える完璧に美しい女に、恋におちたのだ。
しかし女の顔を見て惚ける暇は無かった。瞳に激痛が走る。跪くようにうずくまると、女が水も砂も軽い足取りでかき分けこちらに来るのが分かった。
「愚かな人間。言い残したことがあるなら聞いてあげましょう」
もはや瞳どころか全身が焼けるように熱いのは、あの太陽のせいではないだろう。裸を盗み見たということにしては、あんまりなこの仕打ちは、彼女によるものだという確信があった。
言い残したこと?突然言われても理解できない。自分はここで死ぬのであろうか。それは嫌だ。
不思議なことに、それは恐ろしいからではなかった。もはや暗闇と化した視界の中で、それでも彼女が居るであろうほうへ顔を上げる。
「あんたが好きだ」
砂を大量に吸い込んでしまって咳込む。口の中にあるのが砂か血かの区別はつかなかった。いよいよ己は死ぬのであろうか。
意識を保つことすら難しくなって、いよいよ砂漠の上に這いつくばる。体が燃え尽きる直前、最後に花も恥じらうような、熱の籠った声が耳に落ちて来た。
「――――まあ!」
歌が、歌が聞こえて、目を覚ます。重たい瞼を緩慢に持ち上げ、一番初めに視界に入ったのがこの世のものとは思えぬ美しい女の顔だった。
驚いて情けない声を上げそうになったが、喉は機能を失ったかのように一音だって飛び出すことはない。
頭上の女は心底楽しそうに笑った。何がどうしてこうなっているのか、まったく分からないが、今自分は女の足を枕にしているらしい。
「喜びなさい。貴方には選択が与えられました。1つは不敬にも女神を見た罪の罰としてその命を差し出すこと」
女の瞳には熱があった。しかしその意味を考えようにも、この不自然な状況と女の声が思考を奪っていく。眠りに落ちる直前の感覚。
頬を撫でられる。その仕草に、何故だか首を柔く絞められている想像が頭によぎった。
「もう1つは己の自由を全て手放して、私の物になること。返事はできますね?」
「お、れは」
それは問いかけではなくて催促だった。しまっていたはずの喉を開けられる。多少掠れてはいるが、問題なく言葉が出せるようだ。
それならば答えは一つだ。あの砂漠で彼女を初めて見たときに得た欲求を、死ぬに死ねないと縋った理由が、解消されるのだから。
「俺は、あんたの物になりたい」
「ふふ、それじゃあ契約しましょう。口を開けてください」
疑問を感じるよりも先に口を開いていた。そしてその事実に気づくよりも先に、彼女は俺の口の中に手を突っ込んで舌を掴む。
触れるなんて優しいものではなく、舌をそのまま引きずり出すつもりなのか根元を掴まれえずきかける。
「――――」
彼女が意味不明な言葉を紡ぐ。その刹那、舌が燃え上がるように痛み出した。目覚める前の、あの瞳から始まった痛みと同じ熱さだ。
とどのつまり、死ぬほど辛くて、たぶん死んでもおかしくないことをされている。
「が、ぁ……!?」
「もうすぐ終わりますよ。人は神より時の流れに繊細ですから、もしかしたらあなたにとっては悠久のように感じるかもしれませんけれど」
「ひ、っ」
「ふふ、冗談ですよ。ほら終わりました」
もう途中から痛みで何を言われているのかも分からなかったが、彼女の手が離れ多少の痺れを残して痛みはすっと引いて行く。
己の体の手綱を手放してしまったかのように、意思とは関係なくもう痛くはないのに瞳からはとめどなく雫が零れる。
「いいこいいこ、よく頑張りましたね」
涙に濡れた頬を撫でられる。目が覚めた時とは別の意味で力が入らないため、抵抗も恥も無く冷たい掌を甘受した。
そして理解する。これは躾だ。どちらが上なのかという証明だ。
もちろんこの工程が『契約』というものに必要なことであるというのは事実ではあるだろうが、それにしても彼女のあまりの手荒さはわざとのように思えた。
「あんたは……」
そう言いながら、彼女は俺の唇をすっとなぞる。先ほどまでの己の受けた仕打ちを思い出して、手が口元に近づいたときに呼吸が一瞬止まる。
彼女が自分を痛めつけるためにそうしたわけではないことはすぐに理解できた。ならばと戸惑いの声を上げようとして、その声がまたでなくなっていることに気づいた。
「発言を許可した覚えはありません。それにその呼び方も改めなさい。本来なら罰を与えて然るべきですが…………えぇ、今日は良いでしょう」
再度唇に触れられ、声が返ってくるのが分かる。どうするのが正しいか考えて、とりあえず礼を伝えた。満足そうに彼女が微笑んだので、正解したらしい。
「カリンと呼んでください。名前に意味などありませんが、貴方に合わせてあげるのも必要ですから」
「カリン様?」
「敬称はいりません。あぁ、あなたにも名前を付けてあげねばなりませんね」
「俺?俺の名前は……」
続きを言おうとして、彼女の微笑に制される。
何故俺が碌に準備も整っていない状態で砂漠を彷徨っていたかと言えば、そうせざるを得なかったからだ。
暮らしていた町の中心でもあった水が枯れたのだ。祟りだとか人が増えたせいだとか、色々言われいたが実際は分からない。
結局、何が言いたいのかと言えば、俺は両親が居て、与えられるまでもなく、名前を持っているということだ。
しかし彼女はそれに否を唱える。お前に名前はないのだと。
「私の物になった以上、過去のことは忘れなさい。名前も過去も家族も、全て捨てなさい」
結局あんたは誰なのかとか、契約とは具体的に何なのかとか。聞きたいことは色々あるが、死体にするように瞼に手が触れ目を閉じさせられる。
彼女の語る言葉は子守歌で、夢と現の境が曖昧になっていく。それでも彼女の話すことだけは、意識がなくなる直前まではっきりと耳に届いていた。
「私のことだけ知って、私のことだけ考えて、私のことだけ見ていなさい。それがあなたにとっての至上の幸福であり、あなたが生きる意味なのですから」
目を覚ます。それは十分な睡眠をとったからではなく、今起きることが必要で、求められているからだった。
「カリン?おはよう」
「おはようございます、サク」
「サク?」
「あなたの名前ですよ」
どうやら彼女が己にすべてを捨てさせようとしていたのは本心らしい。元より一人で放浪していた身であるので、そこまで困ることもないが、これに一体なんの意味があるのかは興味がある。
「質問があるんだけど」
「許可します。どうしました?」
「契約って、結局どういうものなんだ?あと名前をつけた意味も」
「契約は初めに言った通り、私の物になるためのものです。難しく考える必要はありませんよ。ただ貴方は私の言うことに従っていれば良いのですから」
カリンは微笑みを浮かべたまま言葉を区切り、だからこそ彼女が明言することを避けていることを理解する。俺がさらに説明を求め言い募ろうとすることは、それこそ契約違反にあたるのかもしれない。
「分かった」
「それで他に質問はありませんか?」
「それじゃあ、ここはどこ?」
「簡単に言えば、私が創った住まいです。森とオアシス、神殿を作ったので、何不自由ない暮らしができますよ。……それで、他には?」
「え?えぇっと……カリンは女神様なのか?」
何かを求められているのだろうがそれが分からず、なんとかひねり出したそれは正解だったらしい。俺の言葉を聞いて、彼女はぱっと少女のように表情を明るくした。
「えぇ!私は人間が呼ぶところの女神です。役割をこなす必要があったので、地上に降りて来たのです」
「役割?」
「最近、人間が増えすぎていますから。いくらか減らす必要があって」
嬉々として語る言葉の不穏さにぎょっとする。彼女の言うことが本当であるなら、俺が暮らしていた町での異変も天罰によるものなのだろうか。
カリンは俺の様子に気づいていないのか、それともあえて無視しているのか、なおも期待するように俺にずいっと近づいてきた。
「それで、他には?私について聞きたいことは?」
彼女を拒否するような度胸は自分にはないし、拒否したいとも思っていないので、どうにかこうにか質問を思いつく。そのたびにカリンは透明な肌を薄く色づかせ、見目とは少し印象の違う声音で弾むように返事をした。
いよいよ聞き尽くしたぞ、というところで、ふと疑問に思う。これも彼女に関することではあるので、及第点ではあるだろう。
「どうして俺を助けてくれたんだ?」
「だってサク、あなた私に求婚したでしょう?」
求婚、プロポーズ、婚姻を要求すること。一瞬思考が止まったが、よくよく思い返して、出会ったその日、意識が途切れる直前に告白したことを思い出した。
告白、というよりも、死を目前にして考えていたことを、そのまま深く考えず口にした、が正しいあれのことか、求婚とは。
「求婚って、愛ゆえに無条件に己を犠牲にして相手のものになることでしょう?私、あんなこと初めてで……」
カリンは瞳を蕩けさせ、両手を頬にあてて視線を落とした。その様は、要するにそういうことで。
自分はどうやら、女神さまをたぶらかしてしまったらしい。もう不敬どころの話ではない。
「サク?」
これは大変なことをやらかしたと考え込んでいるこちらに気づき、顔を覗き込まれる。そもそも求婚の解釈がずれているのではないか、という考えもあるが、藪は突かないほうが賢明だ。誤魔化すつもりで適当に言葉を探す。
「あぁー、えっと、女神さまってのは皆美人なのか?」
「……あら、もう浮気のご予定が?」
「は!?違うちがう!あんたみたいな美人が告白のひとつもされてないってことに驚いただけだ!いやぁ、他の奴らは見る目が無いんだなぁ!」
「あら、まぁ」
不穏なものを感じ取って、慌てて口を開く。どうやら彼女は世間知らずな面が――そもそも世間で暮らしていないので当たり前だが――あるので、あからさまな誤魔化しではあるが、嘘でもないのでどうにか切り抜けられるかもしれない。
案の定というか、彼女は照れを隠しもせずに頬を染めて瞳を甘く溶かす。その愛らしさの塊のような仕草に、ほっと息を吐く。
どうにか切り抜けられたと安堵したのも束の間、彼女は完璧に美しく、慈愛に満ちている作り物の笑みを浮かべた。
「それはそれとして、その不敬な呼び方には罰が必要ですね」
嫌な予感がして、つい背を逸らして距離を取ろうと体が動く。己の意思通りに体は動き、そして彼女は追いかけるように俺の上に跨った。
「初めて出会ったときに私に目を奪われたというのなら、私が持っていることがそも正しいというものでしょう」
いよいよ倒れこんで、床と彼女に挟まれて身動き一つ取れなくなる。
右目がそっとなぞられて瞼を閉じさせられる。今度は眠りのためでは無かった。
カリンは顔をさらに近づけて、祈りのように瞼に口づけた。
「いっ――!?」
柔らかな感触を合図に、右目が燃え上がる。比喩表現ではなくて、涙で滲む左目の片隅に赤いものがゆらりと輝いていた。
「ふふ、サクは本当に泣き虫ですね」
瞳の奥と、それに繋がる神経が無理矢理切り離されているような感覚。
「あ、あ――」
叫び出しそうになって、だけれど己にそれほどの体力は残っていなかった。意味のない呻き声だけが口から漏れる。
視界が赤く染まっているのは、本当に燃えているからなのか。もしかして、血に染まっているからじゃないのか。
何かの液体で顔が濡れる。それも血と考えた理由のひとつだったけれど、役に立たない口の中が塩辛くて、だから、それで。
「はい、おしまい」
理不尽にしかとれない暴力の終わりも、同じようにまた唐突だった。彼女の声を合図に、炎は消える。
以前のように痛みが後を引く、ということもなく、先ほどまでの出来事は嘘だったのではないかと思わされるが、異常に高まったままの心拍数がそれを否定していた。
「空っぽなのも違和感があるでしょうから、代わりの物を入れておきましょう。ただの飾りですけれど」
再度瞼をなぞられると、今度は母親のように手を引かれて外に出る。視界の狭まった中で建物を確認すると、その石造りの建物の外装はまさしく神殿と呼べるものであった。
ただのオアシスというにはいささか豪奢な、噴水と言うべき水辺まで連れて行かれ、水面を覗くように促される。
ただの水面というには不自然なほどにこちらを反射する、底の見えない水は、実際
ただの水ではないのだろう。
「これに懲りたら、あんまり私をいじめないでくださいね」
水の中の自分はいままでの平凡な黒髪黒目の人間ではなく、片目が彼女と同じ赤色になっていた。
「なぁ、これって……っ!?」
この瞳はなんなのか問うために口を開き、また反射した自分の姿に思わず言葉を止める。
己の舌にミミズののたくったような字が――俺は文字が読めないがそれでもここらの人が使うものではないというのは分かった――びっしりと埋め尽くされていた。
「なぁ、この文字のやつって舌じゃないと駄目だったのか?もっと目立たない場所とか……」
「所有印が見えないところにあっても、意味がないでしょう?」
「…………そうか。それじゃあこの目は?」
「先ほど言ったように飾りですよ。本物のあなたの目はいただいてしまいましたから」
カリンはほら、というと、何も持ってなかったはずの手のひらの上で瞳を転がした。グロテスクなそれが自分のものだと言われても実感は湧かないが、今埋まっている平凡な顔とは不釣り合いに美しい宝石のような瞳に比べたら、それは遥かに自分に似合いのものだった。
「この目、綺麗すぎて顔負けしてないか?」
「そんなことありません!それに、ほら、おそろいですから」
なにがそれにほらなのか分からないが、機嫌が良さそうなのでまぁいいのかもしれない。
彼女と出会ってから怒涛過ぎて、己の感情を整理する時間が取れなかったけれど、改めてカリンの姿をまじまじと見つめる。
まず第一に思うのは、とんでもない目にあったな、だった。それでひどい目に遭ってなお、俺は彼女のことを好ましく思っていた。
それが単に見た目がものすごく好みだとか綺麗だとか、そういうのもあるのだろうけれど、何よりも彼女が神である、ということが間違いようのない真実だからであろう。
ひとは、神が居なくては生きられない。それは心の拠り所という意味でもあるし、事実として人間だけではこの土地で暮らすには苦しすぎるからでもある。
自然災害のごとき理不尽で人を襲うこともあれば、人を飢えや病から救うこともある。
それが神だ。人智を超えたものだ。奇跡そのものだ。
敬い、畏怖することはあれど、嫌悪することはあり得ない。馬鹿らしいと言ったほうが正しいだろうか。
「女神様の瞳は綺麗だな」
だから背信者でも狂信者でもないのなら、あまり悲観することも、特別歓喜する必要もない。
それに名前で呼ぶよりも、こっちの方が性に合う。カリンはこの呼び方が気に食わないと、唇を尖らせてそっぽを向いて示してみせたが、頬だけはほんのりと色づいていた。
「もう、せっかく名前を作ったのにあなたという人は……」
「駄目?」
「これはあなたのためだけの名前ですから、貴方だけが呼んで下さらないと、だめです。……もう!サクは黙って私の言うことを聞いていればいいんです!」
それきり彼女は拗ねたようにそっぽを向いて黙ってしまった。もしかしたら理由なんて無くて、ただ名前を呼んでほしいだけなのかもしれない。
本当にそうだったらと願って名前を呼ぼうとして、声が出ないことに気づいた。拗ねたついでにしっかり喋れなくされていた。
声が戻ったのはその日の夜のことだった。不思議なことに、1日過ごしていても眠気どころか空腹に苦しむこともなかった。彼女の言っていた契約、ということと関係があるのかと尋ねれば、カリンはこれに是と返した。
「他になにか変わったことは感じませんか?」
「特には。というか、今までと違う暮らし過ぎて、自分の肉体の問題なのか環境の変化なのか分からない」
いつでも水が飲めて、昼間は暑すぎないし、夜は寒すぎない。空腹に苦しむこともなければ身の危険に怯えることもなく、何より傍には見目麗しい女性――というか女神さまが居る。例の『躾』さえなければ天国と相違ない。
「確かに肉体は人の物ではなくなっています。婚姻を受け入れるにも、相手が人間というのは少し」
「体制が悪い?」
「いえ、気持ち悪いです」
「……なんで婚姻を受け入れる気に?というか、カリンは俺のことが好きなのか?」
「好きですよ。でなかったら受け入れません」
「その、どこが?」
というよりも、どこで?
こちらはまぁ、一目惚れなのでどうこう言う権利はないのだけれど、それにしたって彼女には碌な姿を見せていないはずだ。
俺には彼女のように特別美しいわけでも、何か秀でた才があるわけでもない。
カリンはきょとんとした顔をして、それから自身に満ちている彼女にしては珍しく曖昧に、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「信じたかったのかもしれません」
「信じたかったって、何を?」
「――この話はこれでおしまい。ねぇ、サク、あなたがどうして私を好きになったかは聞きません。過去についての一切を問いません」
今度の微笑みは、女神のそれだった。美しくて、人智を超えたもので、人は何を問われても頷くことしかできなくなる。
「あなたは私のことだけ見て、証明してください。未来永劫、私だけを愛しているんだって」
俺にとっては紛れもない命令であり、彼女にとっては祈りのようだった。
恋人なんていたことないし、愛の証明方法など分からない。
それでもどうか、彼女が俺の持つ感情の一片でも信じてくれたらと、願わずにはいられない。
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