5-1


    5


「小川さん、締めのコーダ、本当にこれで良いと思っている? 後、第四番、全く君は一秒足りとも、この僕をレッスン室から何処へも連れ出してくれなかったね」

「……ラストについては、もう少し表現性を模索してみます。第四番……うぅ、来週の門下会までに、今一度、仕上げておきます」

「頼むよ。何を隠そう、小川さんは、これが最後の集大成なんだから。あー、後は第二番、ここも冒頭――」

 芸術祭まで残すところ二ヶ月弱となり、木谷レッスンも回を追うごとに、その指摘も鋭くなっていった。

 私は食らいつくように、すっかり文字にまみれたノートをめくりながら、該当箇所に追記する。正直ロビコンを目指していた去年よりも、(私が不甲斐ないのか)先生の指導は厳しめで、容赦がなかった。

「んじゃあ、そんな感じで、来週の門下会、楽しみにしているよ」

 そこで彼は丸眼鏡を取り外すと、声のトーンを緩める。私は「精進します」と呟くと、そっと鍵盤蓋に手をかけた。

「ところで、祭の準備は順調なのかい? 当日は僕も、お邪魔させていただくからね。全く銭湯なんて、実に何年ぶりか」

「え、木谷先生、来るんですか?」

「そりゃ、君の集大成を、聴きに行かない講師なんているのかい?」

 何を馬鹿な、とでも言わんばかりの顔を浮かべる彼に、まぁ、それもそうか、と反発の言葉を飲み込む。とりあえず後で、同期LINEに報告しなければ。そう思いながら私が楽譜をしまうと、彼はその丸眼鏡を愛撫しながら実に淡々と、

「後、当日はスペシャルゲストも連れて行くからね。別に誰かを伝えてもいいんだけどさ『黙っていてほしい』なんて言うから。全くそういうところも実にらしいといえば、らしいか」

「え、スペシャルゲスト?」

 これまた急に、と言いかけたところで、レッスン終了のチャイムが鳴る。「全く、君は本当に、演奏家には向いていなかったよ」小さく呟くその言葉とは裏腹に、まるで讃えるかのような彼の口調に、私は首を傾げながら、改めて一礼し、本日のレッスン室を退いた。


 廊下に出ると、窓からは梅雨の走りというべき、小雨がポツポツと降り注いでいた。

 私はしばしそれに見惚れながら、階段を降りると、一階の談話席に腰を下ろす。

『潮湯の芸術祭、木谷先生来ます(泣)』

 すかさず件のメッセージを投げると『やっぱり、薄々予想はしてたけど(泣泣)』と珍しく三浦君が即レスを返してくる。

『だよね、ごめんなさい! でも三浦君たちは、本当に楽しんでピアノを弾いてくれれば、それでいいから』

 私は暫く既読1のやり取りを続けると、区切りがついたタイミングでスマホの予約カレンダーへとアプリを切り替える。

 本日はレッスン一コマだけであり、潮湯のバイトも休みかつ、急ぎの準備の予定も今日はなかった。

 先ほどの先生の指摘を忘れない内に、今一度、該当部分を落とし込んでおくか。

「なんか、この日常がもう、懐かしさすら感じる」 

 思わずそう呟きながら、練習室の空室状況を確認する。よし、いっそ二時間ぐらい入れてしまうか、該当の部屋にチェックを入れ、登記のボタンを押しかけたところで、

「お! あけび~、何、鼻歌なんか歌っちゃって? 楽しそうに」

 威勢の良い口調は唯一無二の親友にそっくりだが、彼女よりも勝気に満ちた声は、まるで世界の中心は私とでも言わんばかりだ。

 果たして顔を少しだけ上げると、滝香澄はその小柄な身体に、多くの書類を携えていた。  

 しかしその彼女自身も、珍しくスッキリした表情を浮かべていることを、私は見逃しはしなかった。

「おー、香澄ちゃん。やだ、鼻歌なんか歌ってた、恥ずかし……いや、普通にこの後、練習室空いてないかなって――」

「あー、そう。もしかして、予約入れちゃった? もしまだならさ、ごめんだけど、私の練習に少し付き合ってくれない?」

「もちろん、構わないよ。もしかして芸術祭で弾くショパンバラード? あ、そういえば、木谷先生がね――」

 と、言いかけたところで、彼女の持参する書類の一枚に目が行ってしまう。

 そこには実に仰々しい学長の印鑑と共に、彼女の退学届受理がはっきりと明記されていた。

                         

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る