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「小川さん、締めのコーダ、本当にこれで良いと思っている? 後、第四番、全く君は一秒足りとも、この僕をレッスン室から何処へも連れ出してくれなかったね」
「……ラストについては、もう少し表現性を模索してみます。第四番……うぅ、来週の門下会までに、今一度、仕上げておきます」
「頼むよ。何を隠そう、小川さんは、これが最後の集大成なんだから。あー、後は第二番、ここも冒頭――」
芸術祭まで残すところ二ヶ月弱となり、木谷レッスンも回を追うごとに、その指摘も鋭くなっていった。
私は食らいつくように、すっかり文字にまみれたノートをめくりながら、該当箇所に追記する。正直ロビコンを目指していた去年よりも、(私が不甲斐ないのか)先生の指導は厳しめで、容赦がなかった。
「んじゃあ、そんな感じで、来週の門下会、楽しみにしているよ」
そこで彼は丸眼鏡を取り外すと、声のトーンを緩める。私は「精進します」と呟くと、そっと鍵盤蓋に手をかけた。
「ところで、祭の準備は順調なのかい? 当日は僕も、お邪魔させていただくからね。全く銭湯なんて、実に何年ぶりか」
「え、木谷先生、来るんですか?」
「そりゃ、君の集大成を、聴きに行かない講師なんているのかい?」
何を馬鹿な、とでも言わんばかりの顔を浮かべる彼に、まぁ、それもそうか、と反発の言葉を飲み込む。とりあえず後で、同期LINEに報告しなければ。そう思いながら私が楽譜をしまうと、彼はその丸眼鏡を愛撫しながら実に淡々と、
「後、当日はスペシャルゲストも連れて行くからね。別に誰かを伝えてもいいんだけどさ『黙っていてほしい』なんて言うから。全くそういうところも実にらしいといえば、らしいか」
「え、スペシャルゲスト?」
これまた急に、と言いかけたところで、レッスン終了のチャイムが鳴る。「全く、君は本当に、演奏家には向いていなかったよ」小さく呟くその言葉とは裏腹に、まるで讃えるかのような彼の口調に、私は首を傾げながら、改めて一礼し、本日のレッスン室を退いた。
廊下に出ると、窓からは梅雨の走りというべき、小雨がポツポツと降り注いでいた。
私はしばしそれに見惚れながら、階段を降りると、一階の談話席に腰を下ろす。
『潮湯の芸術祭、木谷先生来ます(泣)』
すかさず件のメッセージを投げると『やっぱり、薄々予想はしてたけど(泣泣)』と珍しく三浦君が即レスを返してくる。
『だよね、ごめんなさい! でも三浦君たちは、本当に楽しんでピアノを弾いてくれれば、それでいいから』
私は暫く既読1のやり取りを続けると、区切りがついたタイミングでスマホの予約カレンダーへとアプリを切り替える。
本日はレッスン一コマだけであり、潮湯のバイトも休みかつ、急ぎの準備の予定も今日はなかった。
先ほどの先生の指摘を忘れない内に、今一度、該当部分を落とし込んでおくか。
「なんか、この日常がもう、懐かしさすら感じる」
思わずそう呟きながら、練習室の空室状況を確認する。よし、いっそ二時間ぐらい入れてしまうか、該当の部屋にチェックを入れ、登記のボタンを押しかけたところで、
「お! あけび~、何、鼻歌なんか歌っちゃって? 楽しそうに」
威勢の良い口調は唯一無二の親友にそっくりだが、彼女よりも勝気に満ちた声は、まるで世界の中心は私とでも言わんばかりだ。
果たして顔を少しだけ上げると、滝香澄はその小柄な身体に、多くの書類を携えていた。
しかしその彼女自身も、珍しくスッキリした表情を浮かべていることを、私は見逃しはしなかった。
「おー、香澄ちゃん。やだ、鼻歌なんか歌ってた、恥ずかし……いや、普通にこの後、練習室空いてないかなって――」
「あー、そう。もしかして、予約入れちゃった? もしまだならさ、ごめんだけど、私の練習に少し付き合ってくれない?」
「もちろん、構わないよ。もしかして芸術祭で弾くショパンバラード? あ、そういえば、木谷先生がね――」
と、言いかけたところで、彼女の持参する書類の一枚に目が行ってしまう。
そこには実に仰々しい学長の印鑑と共に、彼女の退学届受理がはっきりと明記されていた。
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