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「んじゃあ、小川さん、フロント交代しよっか」

「あ、はーい! ありがとうございます」

 世間でいう大型連休明け初日の夕刻であったが、潮湯は相変わらず、通常運転であった。

 私は(先程PCに送られてきた)今岡君の書のデータを瑞希さんに転送すると、本日の売上とこの数時間の共有事項を多英子さんに報告する。

 朝から降り続いた雨の影響か、本日の来店者の数は少なかった。それでもアイスの売上は、昨日の倍近くに伸びている。

「まぁ、昼前ぐらいから急に蒸し暑くなってきてたしね。はぁ早くも春は終わりで、忌むべき夏の到来かぁ。特に最近の夏は暑すぎて、老いぼれには堪えるのよ」

「確かに、先週ぐらいから、急に気温が上がってきましたよね……でもその分、水風呂が気持ちいいじゃないですか! 私、清掃後、汗だくの状態で、冷えた水風呂に浸かるの大好きなんです。そのために締めの作業、頑張れています!」

「え、なに、もしかしてうちの旦那の入れ知恵?」

 彼女の怪訝な顔に、私はしまったと思いつつ、取り繕うように微笑んだ。

「あ、そう……小川さん、本当に音大の女学生さんなのよね……」

 多英子さんの小言に、私は開きかけた口をそのまま噤んだ。代わりに「休憩いただきます!」とフロント裏のリュックを引っ掴むと、逃げるように表の通りへ飛び出した。


 数時間ぶりに店外に出ると、雨雲は西の空へと過ぎ去り、頭上の雲間からは、うっすらと太陽が射し込んでいた。

 私は少し思案した後、柴犬の散歩をする老夫婦の後をつくように、河川敷に歩を向ける。やがて、区民センターの脇に逸れる形で暫く進むと、小さな公園へと足を踏み入れる。

 そこは全く隔世感のある、まるで世界から忘れ去られたような空間であった。鉄棒やブランコ、ジャングルジムといった遊具はあれど、それらはいずれもひなびて錆付いていた。

 ここがこの数週間、私にとって一人になれる休憩場所。実際、この数日間に至っては、人っ子一人もこの僻地に姿を見せなかった。

 丁度運よく、廃れた東屋の座卓は濡れていなかったので、私はその一角で、早速休憩を取ることにする。

 昨夜博人が詰めてくれたホットサンドのタッパを開けながら、今日は趣向を変えるか、とスマホの選択画面から、J-POPと洋楽をそれぞれチョイスした。


 スマホのアラームが鳴り、柱に寄りかかっていた私はふと、まどろみから目が覚める。

「はや……ふぁ、少し寝てたか」

 一瞬寝ぼけ眼で、変わらぬ朽ち果てた遊具場を眺めながら、伸びをして腰を上げかける。

 さぁ、戻るか。いつも通り、タッパをリュックに戻しかけたところで、表の方からキッと自転車の停まる音が聞こえた。

 お、久しぶりに小学生か子供たちのお出ましかな。私が、本当に何気なく音の鳴る方へ視線を向けた、その時であった。

「ん?」

「あ、」

 小学生の通学自転車とは、あまりにも不釣り合いな、ぶかぶかのミッション系の制服を着こなす彼女は、中学デビューかお馴染みの眼鏡はもうかけてはいなかった。

「千里ちゃん……」

「……のどかから聞いたけど、本当にこの公園で待ち侘びていたんですね」

 逃げられるかとも思ったが、一瞬の驚愕を浮かべた後、むしろ困惑と飽きの入り混じった顔で東屋に近づいてくる相手は、まごうことなきこの一月の私の待ち人である、北千里ちゃんであった。


「うん……でも、それにかこつけて、最近は専ら潮湯の休憩場所に活用しているんだ。ここ、河川敷や区民センターも近いのに、凄く人気がなく、静かだよね」

「少し入り組んだ場所にあるから、ちょっとした穴場なんですよ。一説には、この公園のそこのトイレで、自殺した若い女性がいた……」

 思わず引きつった顔に、千里ちゃんは「……冗談です」と吐息を漏らす。「冗談って――」中一になめられるのか。私が「逆に千里ちゃんの方こそ、今日どうしてここに」 

 確か横浜の中学じゃ、と言いかけて彼女のスクール鞄から、ちらりと覗かせた楽譜を、私は見逃しはしなかった。

「昨日、丁度のどかと連絡する用事があったんですよ。その時、お姉さんが〝お風呂屋に忘れ物した〟私を探しているって。だから、この前、この公園を教えちゃったよって、報告があったんです」

 たまたま、今日は、放課後なんの用事もなかったので、さっき潮湯に寄ったんですが、ねぇ、なんでそんな嘘までついて私に。

 そこで彼女は、心底苛立ったように発すると、続けざま、まるで吐き捨てるように、

「もしかして、先月の喧嘩別れの件ですか?」

「千里ちゃん……うん、中学になったら……ダンスやるんじゃなかったの」

 私の呟きに、彼女は一瞬の迷いすら見せなかった。もう何度も他人に話してきたとばかりに、半ば自分にも言い聞かせるように、

「変わらず、ピアノを続けさせられてますよ。先月のつぐみちゃんたちとの一件もそう。あれだけ中学になったら、一緒にダンスを頑張ろうねって誓い合ったのに、私が一方的にその約束を破った」

「なんで」

「そういう家のもとに生まれたからです」

 既に涙は枯れ果たしたのか、訥々と最も聞きたくない用語を発した彼女は「お姉さんも音楽関係者でしたよね? なら、十分に分かると思うんですけど、私にとって最後にするはずのピアノ発表会が、大成功に終わってしまったんですよ。それを機にお父さんもお母さんも『やっぱり千里はピアノを続けるべきだ』の一点張りで、この四月から日芸のお父さんの知り合いのところに通うことになって、中学入学後のダンス部入部を認めてはくれなかった」

「千里はパパと同じ、ちゃんと努力すれば、ピアニストも夢じゃないって」

 それが定めかのように、ニヒルに呟く彼女は、決してかつての姉の姿ではなかった。

 そこにいるのは、十年前の、私そのものだ。

「……ねぇ、七月の二七日って、千里ちゃん空いてる?」

「え?」

 私はそこで一呼吸置くと「あのね、その日、潮湯でイベントをやる予定でさ。出来れば千里ちゃんにも、そのイベントを見に来てほしいの」

 突然の提案に、彼女は訝しみながらも、予定を確認する。ややあり「一応、今のところ空いてますけど……」と呟くと、私は分かったと、すっくと立ち上がる。

「才能ってさ……残酷な言葉だよね。唯一無二の賜物に賭けて、多くの我慢を強いられた結果、結局他より多少抜きんでたと分かった時のやるせなさ。その過程こそが、大切な時間だ、なんて大人は言うけれど、その言葉自体が結局、期待した大人たち自らの言い訳に過ぎないんだって」

「どうしたんですか、急に……いっちょ前に諭し言葉なんか語り出しちゃって」

 一瞬、年齢差関係なく、持つ者が持たざる者へ向ける冷笑を浮かべた彼女にも、私は穏やかな顔を浮かべた。苦悩する、幼き自分を見下ろすと、私はそこで小さく微笑み、

「ごめん、私、都立音楽大学のピアノ科に通っているんだ」

「え、お姉さん、都音生なんですか?」

 なんで天下の都音生がこんなとこで働いているんですか。この時彼女が初めて見せた、幾分の尊敬の声音に、色々あったんだよ。私も周りの大人たちに「才能」という言葉にもてはやされた結果、潰された口だから。でも図らずも銭湯に出会ったことで、私は救われた。

「それは……」

 なおも生きるためのヒントを探ろうとする彼女に、私は口を開きかけるも、

「ごめん、その答えも、七月二七日に伝えるよ。正直……千里ちゃんが本物の貴石を持っているか否かは分からない。ひょっとすると、その貴石はダンスの方面かもしれない。でも、それを追求してもいいし、その探索を放棄してもいい。中学一年のこの時期は、本当に大事な時間だけど、その探索期間は、千里ちゃんが思っているよりも、十分長いよ」

 私の言葉に、千里ちゃんは即座に、口を開きかけるも、ゆるゆるとその口を噤んだ。

「でも、やっぱり、個人的には、自分のやりたいことに邁進していくのが、一番とは思うよ。というか、千里ちゃんのダンス、凄く気になるんだけど! 一度踊ってくれない?」

「え、お姉さん、見てくれる!?」

「うん! もち――」

 と言いかけたところで、スマホの着信音が鳴る。タイミング悪いなぁ、とその着信主とホームに表示された現在時刻に、忘れていた全てを一気に思い出す。

「しまった、休憩時間だったこと、すっかり忘れてた! ごめん、戻らなきゃ、せっかく乗り気になってくれたのに、本当申し訳ない!」

 慌てて、片付けたリュックを引っ掴むと、千里ちゃんは呆れたように嘆息した。それでも少しだけ、躊躇いがちに俯くと、固く勇気を振り絞った声で、

「お姉さん……潮湯で働く日の休憩は、ここに来るんですよね。私も今日みたいな暇な日は、またここに来てもいいですか?」

「もちろん! 大体、休憩の時間は、いつもこれくらいだからさ。あ、後、えっと、私の名前は小川あけびね。潮湯では、小川さん小川さんって、上の苗字でしか呼ばれてないけど」

「小川、あけび……お姉さん」

 彼女はそう呟くと「分かりました。それじゃ、私もボチボチ帰ります。というか、いい加減、戻らなくて、大丈夫なんですか?」

「あ、そうだ! それじゃ、ごめん、また!」

 そう叫ぶと、再び飽きの入った彼女の表情を顧みることなく、私は今度こそ、すっかり陰りを帯びた公園を飛び出した。

 結局潮湯に戻った後、三〇分以上も連絡もなく、どこをほっつき歩いていたんだと、楠本夫妻にこっぴどく絞られたのは、もちろん言うまでもない話であった。           

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