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芸術祭まで、後三ヶ月となった惜春の土曜。この度、潮湯の(以前二人用ソファが置かれていた)休憩所の空きスペースに、電子ピアノが設置された。
「ほう、まさかうちに、ピアノが置かれる日がくるなんてなぁ」
「ねぇ、小川さん! せっかくだし、何か一曲、弾いてみてよ!」
「分かりました。開店しましたら、せっかくですし、何か一曲――」
この時期だと、環境的にもパッヘルベルのカノン辺り? そう思いながら私はフロント越しに、楠本夫妻と、その奥のミニマムサイズの、それでもれっきとしたそれを眺める。
それにしても、丁度ジャストフィットしてくれて良かった。今回の設置はもちろん、芸術祭で演奏することを踏まえてのものではあった。しかし、この時期に置いたのは、ストリートピアノみたく、銭湯利用者が気軽にピアノに触れてほしい、その願いによるものではあった(ちなみに、利用時間は、隔日曜日の営業開始日から夕方一八時まで。音量も小さめの調整にすることで、近隣住民とは共有済だ)。
『本日も開店しましたー!』のSNSを発信し、開店の戸を開ける。やはり予想していた通り、一番風呂の常連さんには、ピアノは無関心であった。そのまま素通りするか、はたまた眉を顰めるか、「ピアノ!?」と怪訝そうな顔をして夫妻と会話しながら、彼らはいつも通り、自分たちの営みへと向かっていった。と、
カラカラーッ
「いらっしゃいませ!」
「こんにちはー、大人一人と中人一人……いや、もう大人二人か……」
「はーい、合わせて、丁度千円――」
中年の〝美しい〟というべき女性に続いて、姿を見せた相手に私は、微かに身を固くする。
目の前の女性とはやや系統の異なる、それでも血の繋がりは感じさせる丸顔で色白な女の子。うん、見覚えがある(後々思い起こせば、その日と同じ服を着ていたというのも幸いした)、先日、千里ちゃんと喧嘩別れした女の子の内の一人だ。そのまま、脱衣所へと消えゆく二人に私は思わず、
「えっと……ごめんなさい、もしかして、北千里ちゃんのお友達?」
「え?」
まさか話しかけられるとは思っていなかったのだろう。キョトンとする少女に、私は必死であった。この機会を逃しては駄目だ。彼女に逃げられないよう、私は努めて自然な、相手に不審を抱かせない口調で、
「あ、ごめんなさい、私、ピアノを習う学生で、この銭湯で働いているんだ。千里ちゃんとは、ピアノ友達なんだけど、彼女、先日、うちに忘れ物しちゃって。本当はお渡ししたいんだけど、連絡先知らないし、最近うちにも全く来てくれなくて……」
と思ったら、この前のお昼時、そこの隣の公園で、千里ちゃんとお話している姿が見えちゃって。その時はさすがに声かけづらくってさ。もしかして千里ちゃん、あそこにはよく来るの?
我ながら見事な、でっち上げだなと思いながらも、幸い多英子さんは、ピアノ前で常連と会話に夢中で、清治さんは既に釜場であった。直前「先に行ってるね」と目配せした女性に、彼女は困惑しながらも、事情は理解したのか、少し渋面を浮かべ、
「えっと、あそこの公園はたまたまで……どっちかといえば、私たちは、筑田の方の公園で、放課後よく喋ったりしてました……」
でも千里、今月から元町の中学になったから、そこにももう行かないと思います。この前、を最後にもう会う予定は無いですが、良ければ私、連絡しましょうか?
〝この前〟を強調しながら、律儀に気を遣う中学生に、私は途端に、自分が何をやっているのか、猛烈に恥ずかしくなった。
「そっか……ううん、全然! 急ぎのものでもないから、情報ありがとう!」
はぃ、と終始警戒を抜かない表情の相手に、「ごめんなさい、突然に話しかけて。あ、お風呂ごゆっくり!」と告げると、彼女は少し首を下げ、急ぎ暖簾を潜っていった。
「はぁ、なにやってんだか、私……」
そう言いながらも、まさか、このタイミングで千里ちゃんの情報を得られたことに、内心動揺を隠せなかった。
私は先程の女の子に感謝しながら、そもそものきっかけである、先日の彼女の、悲痛な表情を想起した。と、
「小川さん、ほら、フロント変わるからさ、佐々木さんも一曲聴きたいって!」
丁度会話が切り上がった(或いは既に切り上がっていたのか)多英子さんと〝かき氷の叔母さん〟が叫ぶと、同時に新たに数名の大学生が来店した。
「あ……はい! 私が芸術祭以外で弾くのは今日だけですよ!」
そう告げると、「銭湯にピアノ置いてあるじゃん!」という男子学生の声を背後に、私は気持ち切り替え、ピアノ椅子のそれへとゆっくり腰掛けた。
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