最終章 潮湯初夏芸術祭

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「うーん……違うなぁ」

 第四番の課題を克服したと思ったら、今度は第八番の冒頭に嫌悪感を抱いてしまう。シューマンの曲風を意識しすぎか。いや単純に、前曲の転調から、指が瞬時に切り替えられていない。

「今日はここまでか……」

 いつしか夕闇の射す室内に、そっと鍵盤蓋に手をかけたところで、ふと人の気配に気づく。振り返ると、よく梳かれた長髪をぷらんと垂らした博人が、買い物袋片手に、見惚れるようにこちらを眺めていた。

「うわぁ! お帰り、来てたのなら、声かけてよ……なに、いつからいたの?」

「ただいま……今、さっきだよ。なんか、あけびが、真剣にピアノに向き合っている表情が、凄く久しぶりな感じがして。今日から授業開始だよね、大学どうだった?」

「あぁ、うん。早速、木谷先生のレッスンがあったんだけどさ、凄く参考になる助言をいただいて。家でも、少しだけ、復習するはずが、気づいたら、こんな時間になってた」

 本当は、もう少し早めに切り上げるはずだったんだけど、完全にゾーンに入っていました、ごめんなさい。

 そう言いながら、キッチンに移動し、手を洗うと、冷蔵庫から(既に下ごしらえ済の)鮭の漬けを取り出す。一方〝彼〟は特に気にするでもなく、「ううん、全然。そもそもその姿が、僕の好きなあけびだから」と平然とのたまい、買い物袋から、丁度切らしていたキッチンの消毒液を詰め替え始める。

「……七月の芸術祭、最高の演奏をするから……ねぇ、そっちの方は順調なの? 博人の方も今日だよね、建築士さんとの建て替えの打ち合わせ」

 さりげなく〝彼女〟の指を絡めて、詰め替え袋をゴミ箱に放る。すると〝彼〟は「ありがと」と小さく微笑み、

「まぁ、ぼちぼちかな。ドラム缶を置くスペースと露天風呂の兼ね合いは決まったんだけど、そうなると今度はサウナが邪魔になって。いっそのことサウナ、廃止しようかと思っている」

 ふんわり小さく唇を交わすと、〝彼女〟は満足そうに、ゆっくり居間のソファへ向かう。

「そうなの? まぁ、浜田湯はサウナがなくても、やっていけるよね。コンセプトも、やっぱり〝無〟にこだわった?」

「うん、そこは、ちょっと面白い仕掛けを考えてね。また、ご飯食べ終わったら、設計図見てよ」

 あけびも、出来ればちょっと意見ほしい。そう言いながら、もうすっかり脱力したままテレビを点ける博人に、私はそれ以上追求せず、黙ってフライパンに鮭を敷いた。

 部屋一面に漂う、醬油とみりんの焼けた香りが、一層、空腹を刺激する。あぁ、とりわけ、今日は久々のピアノに対する充実した疲労感で、幸せもひとしおだ。

 今日は奮発して、玉露でも出してしまおうか。付け合わせと共に、棚から茶葉を出したところ、テレビのニュース番組を眺めていた〝彼女〟がふと「あ、」と思い出したような声音で、

「そういえばさ、今日久々に、ともちゃんが家に来て。この春から、二丁目のbarで働くことが決まったって、満面の笑みで報告してくれたよ……そもそも翔の斡旋が大きかったみたいで、大学生になったらって、口約束していたらしい」

「そうなんだ、あれ、お金貯めたら、タイで性別適合手術するんだよね?」

「うん、改めて彼女も宣言していた。まぁ、本格的にホルモンも打ち始めるって言っていたし、夜職とはいえ、目標額には数年かかるんじゃないかな」

 〝彼〟の会話に、いつぞやの飲みの席で、『私は高橋朋として、今後生きていきます』と吐露する彼女の姿が思い浮かんだ。

 そうか、二年が経って、ついにともちゃんも夢に向かって歩き出したか。いや、彼女だけじゃない。麻里江さんに恭介さん、美香さんに今岡君と、銭湯で出会った人たちは、そこで一休み入れながらも、それぞれがそれぞれのペースで、自身の目標へと邁進していっている。

 だからこそ私は、部外者とはいえ、出来れば最後に彼女を救ってあげたい。

 物憂げに平皿をよそったところ「あけび?」と博人が、心配そうにこちらへと歩み寄る。

「……ううん、ともちゃんや皆と出会ってから、随分時が経ったなって。千恵さんと出会ったのも、丁度三年前の今頃だしね」

 と、配膳を手伝いに来たスウェット姿の〝彼女〟に、咄嗟に抱き着いてしまう。〝彼〟は一瞬静止しながらも、生まれ持った、他者を安心させるような優しい声音で、

「……あけびも、出会った時と比べて、凄く大人になった。いや、随分と大胆になったよ」

「……そりゃ、博人をはじめとして、終始周りの皆さんに翻弄されっぱなしでしたから……そんな私は嫌い?」

「まさか。まぁ、僕の一言一言に、終始あわあわしているあけびも、可愛かったけどね」

「……やっぱり、当時から自覚はあったんじゃないですか」

 再び唇を交わし、〝彼女〟の優しい愛撫に、小さなしこりも解きほぐされる。よし、やっぱり、気にかけるだけでは終わりたくない。肩越しにこの数年、苦楽を共にした相棒の筐体を眺めると、私は再び〝彼〟の胸に顔を埋め、誓いを立てる。そこには、ほのかに香る博人の香水と汗の匂いに交じって、あの安らぎに満ちた、浜田湯の塩素の香りもうっすらと漂っていた。

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