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「ごめーん、その日、休業予定だったんだけどさ。ほら、その時期、桃の葉湯の季節じゃん? だから急遽開けることにしてさ、例のイベント参加できないや、大変申し訳ない!」

 打ち合わせに伺って早々、謝罪のポーズを浮かべる美香さんに、私は正直、開いた口が塞がらなかった。

 バレンタインから一週間が経ち、潮湯芸術祭の企画は順調であった。音楽演奏に加えて、今井君と瑞希さんによる書とイラストのコラボレーション、そして恭介さんと美香さんpresent「絵画から紡ぐ物語(仮)」、と思っていた矢先、彼女の不参加はまさに晴天の霹靂であった。

「なるほど、まだちゃんとした打ち合わせはしてないですものね……もちろん、承知です! でも、どうしよう……今から、別の人を見つけるか……」

 以前、イベント参加の言質を取った後、計画を進めていただけに、企画の練り直しはなんとしても避けたかった。

 私が人目も憚らず、混乱状態に陥りかけたところ、さすがに彼女も代替案を用意していたのか、

「うん、それで、一度承諾した手前、さすがに悪いと思って、代わりの人を用意した……あのさ、去年の六月くらいにうちで絵画展やったの覚えてる? あの後輩が、参加してくれることになったから、後は彼女とやり取りしてくれる?」

「えっと……あー、覚えていますよ! なんでしたっけ、確か、杉中……」

 上目遣いの彼女の(相変わらず今日も綺麗に整えられた)ブルーアッシュの短髪を通し、あの時の梅雨の様子が脳裏をよぎる。

 部屋一面に埋め尽くされた岩絵具画、歪でどこか浮き上がった日常の絵の断片の数々、そして、見事なスナッグピアスを身に着け挨拶してくれた作者と、彼女が最後に口にした一言、

「そ、佳奈子、普段はこれまでの恩を散々挙げ連ねても、一向に聞く耳を持たないんだけど。今回小川さんのこと話したら『あぁ、あの虹色のブレスレットの子かぁ』って、珍しく、食指を動かしてさ」

 企画内容を告げたら、より一層、ノッてくれて。だから、これ。そう彼女が提示したスマホのLINE画面には、カタツムリの廃れた抜け殻のアイコンが共有されていた。

「ごめんだけど、それじゃぁ、後はお任せしちゃうよ」

 そう言い放つと、すぐさまスマホをしまい、フロントへと向かっていく彼女に、「了解です。いえ、こちらこそ、ありがとうございます!」と一礼し、腰を上げかける。と、

「いいえ、そもそも私が翻意したのが悪いんだし……それで、少し話が変わるんだけど、小川さん、来年の春から京都の銭湯で働くんだってね。多英子さんから、聞きました」

「あ、そうなんです。この度、ご縁をいただいて、京都の『太閤湯』って銭湯に運営から任せてもらうんです」

「そっか、それはおめでとう。ただね――」

 その言葉とは裏腹に、彼女はひどく浮かない顔をしていた。いや別に、その熱意を冷まそうって気はサラサラないんだけどね、ただこれも現実ってことで。

 そう言い、戻ってきた彼女の手元には、明らかに人間の手で半分に折られた水桶と、壊れたドライヤーが携えられていた。

「SNSきっかけでさ、多くの人がうちに来てくれるのはありがたいんだけどね。それと比例してっていうか、いや、そもそも母数関係なく、最近お客さんの民度が悪くなっていると思うの」

 でさ、先日、この件で注意したら、俺じゃないって、なめくさった態度取る客がいてね。何名かのお客さんが見ていますからって言っても、知らん顔。その癖、うちの男性スタッフが応対しかけた途端、急に態度変えて謝りだすし。だからね、要は今現在、どんなに男女平等の社会運営って言ったところで。

「少なくとも、このご時世の順調な銭湯運営と女性経営の両立は、つくづく難しいと思う」

 そう言った彼女の表情は、怒りの中にもある種の諦念もうっすら交じっていた。ま、曽我部さんが運営母体らしいし。ちゃんと男女体制だろうから、そこは大丈夫だと思うけど。

 溜息を吐きながら、再び残骸をフロントの裏手に戻す彼女に、私は何も返事ができなかった。

『やっぱり銭湯経営は、女性がやるもんじゃないよ』

 いつだったか、太田さんの一言がふと脳裏をよぎる。そもそもが、私は順調に恵まれすぎていたのだ。件のことだって、大枠の中の一例にしか過ぎないのかもしれない。しかし、

「まぁ、でも、頑張ってね。なにはともあれさ。まりちゃんから紹介されたよしみとして、若い女性の同業界参入は心の底から嬉しいよ」

 そう言い、真の入った瞳で、私を力強く見据える彼女は、初めて私を正面から向き合ってくれたような、そんな気持ちが少しだけした。

「はい……美香さんに負けないように……そしてこの素晴らしき銭湯文化を絶やさないよう、頑張っていきます!」

 即座に、生意気な言葉を口走ってしまったか、と後悔しかけるも、彼女はフッと小さく笑い、「それじゃ、今日も開店に向けて準備するから」と、振り返りもせず、男湯の方へと去っていった。

 私はもう一度、目礼し、三島湯を去る。これから先、多くの苦労が待ち受けているであろうが、まずは目前からだ。

 彼女のアイデンティティであるロック鳥の壁画に、私は自身の両の手を掲げる。そしてそれをグーパーし、暫く眺めると、発作的に自身のLINEアプリを開き、相手に送るメッセージの考案に取り掛かった。              

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