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「小川!」とかけられた声の主が、私には一瞬、誰か判別出来なかった。

 去年の夏、繭と実技試験の練習以来に訪れたクレストは(春休みのせいか)閑散としていた。昭和歌謡を流し、ぼんやり頬杖を打つマスターの真横で、剃り残した無精ひげに幾分よれたワイシャツを着流した、三浦君が佇んでいた。

「ごめん、お待たせ……珍しいね、そんな出で立ち。やっぱり絶賛、コンクール曲の猛特訓中?」

「そんな感じ、今日も直前まで練習してたんだけど、もう大スランプでさ。木谷先生からも『もっと、スクリャービンの気持ちに寄り添いなさい!』って。十分曲解釈はしているはずなんだけどなぁ……」

「スクリャービンか、確かにむずいね……ごめん、そんな中、時間いただいちゃって」

 あぁ、既に懐かしいな、この感覚。すっかり後にした土俵に、絶賛現役のまま泥塗れになっている三浦君が、私には羨ましく、チクリと胸が多少痛んだ。

 私は注文を済ませると、クリアファイルを出しかけて、それより先に、リュックの真横に置いた紙袋を差し出した。

 仲の良い異性(しかもこの後お願いをする)と今日会うからには、これは義務である。今朝方、博人に上げたよりも、少し小さめのサイズを提示すると、彼は予期していなかったのか、驚き後、少年のように顔を綻ばせ、

「お、チョコだ、サンキュー。やっぱ、ゴディバだよなぁ。繭からも、今朝手作りのブラウニーを貰ったんだけど、正直チョコ塊、ちゃんと湯煎をしていないから、駄目なんだよ」

「チョコ塊で悪かったね!?」

 普段の三浦君なら、ありえない(彼は非常に疲れていたのだ)失言を零したところで、いつの間にかフルートケースを抱えた繭が、烈火の如く彼の背後で仁王立ちしていた。

「あ……いや、さっきも言ったけど、味はチョコ本来の味で美味しかったよ……わざわざ僕のために、夜なべをしてくれて、ありがとう……」

「ったく、ハイカカオが苦手なら、ちゃんと言ってくれればいいのに……で、あけび、絶賛、大忙しの私たちを、呼び出した理由って?」

 ホットコーヒーと声を上げ、彼の隣に腰掛ける彼女に「うん、ご相談レベルです」と、私は気を取り直したように、二人にファイルに挟んだレジュメを提示する。

「実はさ、この夏『潮湯』って銭湯で、私主催の芸術イベントを開催する予定なんだ。それで、その一環としてお二人に、もし可能なら一曲、何か披露していただきないなって」

 もちろん、私も演奏予定だけど。既に概要は二人に伝えていたものの、銭湯ということだけは、意図的に伏せていた。案の定「潮湯……」と眉を曇らせる彼の真横で、繭はやれやれと両手を掲げ、

「だろうと思った。前話してくれたやつでしょ? 正直、絵空事にしか思っていなかったんだけど、早速実行に移すのね」

 七月最終週かぁ、確かに学校も公務員試験も終わっちゃいるけど。髪をかき上げながら、レジュメを睨む彼女の真横で、三浦君はゆっくりとそれを置いた。そして、改めて都立音大ピアノ科の木谷門下の同期として、彼女に真剣に向き合うように、

「小川、繭から聞いてるけど、卒業後は銭湯を継業するんだってね。別に俺は、口出しするでもなし、今回の企画も面白そうだから、喜んで参加させていただくよ。ただ一点だけ確認させて」

「もしかして、去年のロビコンに選ばれていたら、ピアノはなおも続けてた?」

 彼の瞳の奥で、あの夏のひと時が脳裏をよぎる。恐ろしいほど、純粋に心配する表情が、私にはひどく恨めしかった。それでも、私はゆっくりとかぶりを振り、

「ううん……どちらにせよ、私は一年の埼玉音楽祭で、ピアノには四年間で終止符を打つことを決めていたよ。その集大成として……正直ロビコンは狙っていたけど、あの『ピアノソナタ』にはさすがに勝てなかったね」

 だから、私の将来に、三浦君はそんなに影響していないよ。少し突き放すように、それでもはっきりと告げると、彼は再び口を開きかけ、そのまま噤んだ。そして、ゴディバの隣に置いたカップに口をつけると、彼も胸のつっかえを吐き出すように、

「これは……勝者の余裕だと思って、黙っていた……けど、俺はさ、実技試験の小川のチャイコを聴いて、ロビコンは、小川が選出されるものだと思っていた」

「え! あの時、侑磨も会場にいたの!?」

 思わず驚嘆して声を漏らす彼女に「実はね、家でいてもたってもいられず、こっそり」と彼は苦笑する。そして、同期の労いというよりも、いわば好敵手に心の底から敬意を表すといった口調で、

「俺はさ、入学当初からダイナミックに弾く滝もそうだし、一貫して真摯に曲と向き合う小川の演奏が凄く好きだった。だから、二人に負けまいと、校内留学プロジェクトにも参加したし、バイトでお金を貯めながらピアノに全力を打ち込んだ。もちろん、最大の励みは、いつも隣に繭がいてくれたからだけど」

 そう言い、横にいた繭の手を、慈しむようにゆっくりと握りしめる。無言のまま、相好を崩す彼女の横で、彼は小さく微笑みながら、再び正面を向き、

「だからさ、この三年間、小川が同期でいてくれて、本当に感謝している。大学卒業後、音楽とは異なる進路に進むとしても、俺は全力で応援するし、力になれるならなんだってするよ」

 ちなみに銭湯、俺も実は結構好きなんだよねぇ、というか、いっそ滝も誘おうぜ。あいつ、こういうイベント絶対好きでしょ!

 そう言い、無精ひげの生えた口元を綻ばせる三浦君であったが、私は冷静に応答できるわけもなかった。

「そんな……急に……こんなこと言われると思っていなかったから……」

 しゃくりあげながら、幾度も指で涙を拭うと、ごめんねと彼は苦笑いのまま、ハンカチを手渡し、

「ロビコンが終わってから、小川とちゃんと話す機会無かったしな。授業では、宮本辺りがちょっかい出してくるし、この前の門下演奏会は、体調不良で俺休んじゃったしね」

「ん、まぁ、こんな展開になるんじゃないかと思っていたわぁ。じゃ、早速、内容軽く詰めていきたいんだけど、落ち着いたら、質問してもいい?」

 呆れたように、再びレジュメに目を向ける友にも、私は激情を押さえられなかった。

「もちろん……ちょっと……ごめんね」

 そう言いながら、私は彼のハンカチで目元を抑える。そして三人で、無言で暫し時を過ごす間、店内の昭和歌謡はなおも穏やかに流れ続けていた。

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