7-2
「んじゃあ、そろそろ、暖簾出しますね」
無理に恭介さんを引き剝がすでもなく、それでも淡々と三白眼の視線を番台に向ける彼に、「はーい、今日もよろしくお願いします」と、小銭の準備を進める博人がゆっくりと首肯する。
「お、開店? んじゃあ、一番風呂、一番風呂―」
と、途端に気を取り直したように、彼の身体をするりと抜け、男湯へ向かっていく恭介さんに、「それじゃ、お客さんも来るし、ぼちぼち退散します」と腰を上げかけた瞬間であった。
「あ、あけびお姉ちゃん!」
太田さんが引き戸を開け、なだれ込む(一番風呂目当ての)常連さんに交じって、今回は二人のお友達を引き連れた美紅ちゃんがそこにはいた。
「お、美紅ちゃん、久しぶりー! あれー、学校は?」
色とりどりの冬の衣装を纏った彼女たちに、思わず口元を綻ばせると、『誰、この人?』と背後にいた友達たちが、こぞって首を傾げる。
「前に話したピアノのお姉ちゃん! お姉ちゃん、ほんっとうに、ピアノが上手なんだよ。だから美紅も、ピアノ習って、お姉ちゃんを目指しているんだ!!」
まるで我が事のように、胸をのけ反らせる美紅ちゃんに、「前、言ってた人かー」「こんにちは!」と、彼女たちもやや警戒を解いたように、揃って丁寧に挨拶する。
「今日は、学校はお昼まで! 今、楓ちゃんのお家がリフォーム中だから、皆で初めてお風呂に入りに来たの!」
違うよー、私が寒い日はお風呂上がりが一番って言ったからでしょ! 彼女の真後ろにいた幾分ボーイッシュなポニテ姿のお友達に、「翠は、お風呂後のアイスが幸せって言ってただけじゃん!」と、くりっとした瞳の、ガーリーな装いの彼女(楓ちゃん?)が口を膨らませる。
「ねえねえ、お姉ちゃんさー、またピアノ弾かないの?」
友達がいる手前か、若干上目遣いに眺めてくる彼女に、私は「えっとねー」と握っていた左手に少し力を籠める。
「今年の……夏になるけど……横浜の銭湯で、ピアノを弾く予定なんだ。まだ仮の話なんだけど、本決まりになったら、美紅ちゃん、来てくれる?」
『えー、銭湯でピアノー?』
打診すると同時に、後ろにいた二人はそれぞれ驚嘆した顔を浮かべたが、それでも美紅ちゃんは、
「本当に!? 絶対、行くよ、行く行く!」
と、まるで一つの生きがいを見出したかのように、彼女はその小さなつぶらな瞳を、キラキラと輝かせた。
「約束だよ! ねぇ、翠ちゃんと楓ちゃんも一緒に行こうよー!」
途端に、高揚した顔で、背後を振り返る彼女に「夏休みに横浜にお出かけー?」「クラブの大会次第かなぁ、というか、早くお風呂に入ろう!」と二人もまんざらでもなさそうに、博人の番台へと向かった。
「じゃあね、お姉ちゃん、楽しみにしてる!」
既に決定事項とばかりに、あどけない笑みを浮かべる彼女に、「じゃあね」と私は不器用に右手を上げ、あの〝良い別れ方を崩したくない〟といったノリで、そのまま浜田湯を後にした。
暖簾を抜けると、春一番のごとき強風が街には吹き荒れていた。夏なんて、まだまだ先でしょ。そう思いながらも、胸中は、まるで春の長閑さのように、ポカポカと温かく心地よかった。
「よし、家帰って、もう少し詰めるか」
私はそう独りごちると、強風の影響を受けない物陰へと移動し、左手に抱えたノートのページをめくった。そこには殴り書きの一文に「音楽、ex.ピアノ 誰かに依頼?」と記されていた。私はそこに一筆入れる。無論最後の門下演奏会や卒業演奏と、まだまだピアノを弾く機会は多い、それでもある意味、私はここを集大成にするべきではないか。
再び向かい風が吹き荒ぶ通りを、私はそんなことを漠然と考えながらゆっくりと家への路を歩いた。
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