5-2
「へぇ、前よりも良くなってんじゃん」
第三楽章終盤、一気にテンポを速め、熱狂的にラストを弾き終えると、その横で繭は顎に手を載せたまま、冷めた表情で呟いた。
「二楽章の中間部もそうだけど、今のラストの部分とか、音が前よりもスムーズになってるね。言っても、三楽章の初め? 辺りは、まだ音に引きずられがちだけど」
それでも五月の門下演奏と比べれば、はるかに上達してるわ。そう述べると彼女は、おもむろにストライプの長シャツを羽織りだす。
室内に響くエアコンの轟音。学内に到着するや、私たちは持参したタオルで汗水拭きながら、暫く練習室で涼を取っていたが、不意に我に返った私は「一曲弾きます」と宣言すると、夢中になって本曲を通した。
「本当に?……技術面は木谷先生からスパルタ猛特訓を受けていたから、そう言ってもらえると嬉しい。三楽章のイントロねぇ、本当は余裕をもって入りたいんだけど、一気に転調するから、どうしても切り替えるのに一杯一杯になっちゃう」
屋根に置いたペットボトルで喉を潤すと、「あそこって、大体『ピアノ協奏曲』弾く人、皆苦労してるよねぇ」と彼女は同情的に呟き、
「さすがにさぶい」と吐き捨て、冷房の温度調節ボタンをいじくりだした。
「でも、まぁ、いい兆候だと思うよ。年初のリサイタルはともかく、一年のコンクールなんて、表現力が突っ走りすぎてたもん。逆に先日の門下会は、弾くことにしか注視出来て無かったし。その意味で今回は技術と表現力がうまく調和してきている気がする」
そう話すとおもむろに伸びをしながら「そういや最近、辻無さんとはどう?」と世間話のように淡々と尋ねた。
「……相変わらず、何も無いよ。週に一回、私たちの部屋で暮らしている感じ。先週の休みは、友人に薦められてハマったみたいで、今話題の『どうぶつの森』を二人して遊んでた」
「なに、あんたら、あつ森やってんの」そこで彼女は苦笑いを浮かべると、少し問いた気な視線を向けながらも、そのまま押し黙った。
再び冷房の微風があたりにたなびく。私はそこで、スマホを取り出すと、一瞥する。時刻は一三時過ぎ、まだ予約時間まで余裕はあった。念のため他の練習室も比較的空きがあることを確認すると、私は躊躇いながらも覚悟を決め、
「うん、それでね……博人とはそんな感じなんだけど、その翌日に息抜きで一人横浜の銭湯に行ったんだ。そしたらさ、そこで丁度イベントが行われていたんだけど――」
安易に他者に共有するのが、正しいことなのか、正直分からなかったが、それでも私は先日の絵画展について、ざっくばらんに彼女に共有せざるを得なかった。
「あの後、私、考えちゃったんだ。今までは伝えよう、理解してもらおうって気持ちが逸りすぎちゃってたけど、それは時に他者を困惑させてしまうものなんだって。繭みたいな人だっている……もちろん、否定し・排除するのはやっぱり違うと思うんだけど、まずは相手の気持ちに寄り添って私は……少なくともピアノは呈示するだけに留めようって」
『ピアノ協奏曲』を選んだ理由、それは少なくとも一年次の秋とは全く異なっていた。確かにピアノは自身の思いを表現する媒体でもある。でも、不意に祖母や森下さんの辛そうな顔が思い浮かぶ。そしてそれに覆い被さるように、あのクリスマス会の喧騒、少女の熱を帯びた瞳が脳内を駆け巡った。
「ふぅん……やっぱり私さ、前も話したと思うけど、『イグアナはやっぱり気持ち悪い』ものなんだよ。侵害するつもりなんてさらさらない。けど、できれば本当に、かかわらずに生きていたい、それは悪いことなのかな」
本能に対する想いと倫理観のせめぎ合いで、半ば苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる彼女に、私はゆっくり首を振った。
かつては友人の告白に、幾分の反発心を抱いたものだ。でも、今は彼女の心情をようやく理解できた気がする。出来れば考えたくないものに、改めて正面から向き合い整理して、自身の意見を言ってくれた彼女が、私は何よりもありがたかった。
「ううん、むしろ私が繭の気持ちをようやく理解するのが遅すぎた、本当ごめん……だからこそ、今回はチャイコの『ピアノ協奏曲』は、ミスなく完璧に弾きたい。その上で聴衆の皆さんに楽しんでもらえたら、それは最高だなって」
無意識に、それでも心の底からはっきり微笑むと、繭は一瞬、呆気にとられた顔をしていた。でも、即座に、彼女は飽きの入った顔を浮かべ、
「だったらなおのこと、死ぬ気で練習しなきゃ。言い忘れてたけど、第三楽章の第二主題も結構、音が弱く感じられたからね。というか、こんな雑談するために、私は試験勉強切り上げたわけじゃないから」
ふてくされた声で、その長い足を組みながら、いじらしい笑みを浮かべていた。
「ぐっ……お見通し……はい、もう一曲聴くお時間をいただきたいです……」
「はい、その分、今度昼飯おごってね。今日、急に走らされた分込みで、安いもんでしょ」
「全力でアドバイスするって言ったのはどこのどいつよ……まぁ、飲み物ぐらいなら一杯おごってやっても――」
そう言った途端、やった! じゃあまた今度、スタバで! という彼女に、クレストじゃないんかいと小さく毒づく。それを無視してスマホをいじりだす相手に、私は再びうっすら笑みを浮かべると、小さく嘆息し、もう一度鍵盤に指を添えた。
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