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週が明けた火曜、二限の「教養科目・音楽療法」の座学を終えた私は、待ち合わせ場所の「クレスト」へと向かった。
「繭、お疲れ。ごめん、待たせちゃって」
「お疲れー。全然、今日は夕方まで予定無いから、三〇分でも一時間でも待つよ」
私たちの定位置である大ステンドグラス前で、眼鏡をかけた彼女は、実にあっけらかんとした表情で、ドクターグリップを握りしめていた。
「ありがとう、でも一時間だと予約時間過ぎちゃうよ……」
微笑交じりに、注文を取りに来たマスターにアイスティーを注文したところ「それもそっか」と適当に返される。
少し居心地悪げに、卓上に視線を向けたところ、伸びをする彼女の前には、東京都の公務員試験過去問がぶちまけられていた。
「もう試験の過去問なんか解いているんだ」
私が無意識に感嘆した声を漏らすと、「いやぁ、丁度先週から。むずすぎて、ガチ萎えるわ」と、やや眉根を寄せながら、それらを眼鏡とともにバッグにしまった。
「そ、れ、よ、り! 何よ、週末のLINE。『もしお忙しくなければ、来週のどこかで、チャイコ聞いていただけませんか』って、久々の連絡と思ったら、急に他人行儀になっちゃって。『火曜なら、夕方まで池袋で暇でございます』って返したら、『じゃあ一三時にお時間ください』って華麗にスルーするし。気持ち悪い。もしかして今回の一件、私が侑磨の味方であけびの敵と思ってる?」
からかい口調で、それでも幾分の怒りと一抹の寂しさを含んだ言葉に、私は「いや、そんなことないよ!」と、咄嗟に両手を振りながら、アイスティーを啜る。
「そ、ならいいけど。というか、一応、後腐れが無いよう予め言っておくけど、今年のロビコン、私は中立の立場だからね。侑磨もあけびも、どっちにも肩を持つ気はないし。もちろん、逆に求められれば、私の出来る範囲で、両者には全力でアドバイスする」
多少の労りを滲ませながらも、彼女がはっきりと断言したところで、あの時の三浦君の巧みな指さばきの連符が思い返される。「本当に? それを聞いて安心したかな、そこは正直、今回は私一人だけの戦いになると思ってたから」と吐息を漏らし、率直な安堵を述べたところ「何馬鹿なこと言ってんの。私たちはソリストと伴奏の関係を超えた親友でしょ」と彼女は、今度は露骨に不満をあらわにし、残っていたコーヒーをグッと飲み干した。
それから十数分、予備校に通い始めたら地元の友人と遭遇しただの紙タバコと電子タバコの是非についてだの、適当に近況を語り合っていたところ、あっという間に予約時間が十分前になった。
「お、雨止んでる」
会計を済ませ、外へ出ると、丁度雨粒が途絶えたのか、鉛色の空が広がっていた。
「だねー、今のうちに急ぐか」
そう言いながらも、鬼子母神堂前の道中、まるで去年のデジャヴかのように、道端のアジサイが、これ見よがしに咲き誇っていたところで、私は思わず足を止めてしまう。
「アジサイ……綺麗だよねぇ……私、サクラやヒマワリよりも、アジサイが一番、日本の花で好きかもしれん」
淀んだ世界を一層味方につけるように、色とりどりに咲く彼らに、無意識の心の声が漏れたところ、彼女は特に合わせるでもなく、
「あ、それ、わかる。でもさ、知ってる?『桜の樹の下には屍体が埋まっている』って言われがちだけど、実はアジサイの方も、葉っぱには、人を殺す程の猛毒があるって」
自然とそう呟いた瞬間、思わず振り返ってしまう。「……嘘です。ほんの微毒程度です」私があまりにも驚いた顔をしていたのか、彼女が早々にネタばらしをするや、私は咄嗟に噴いてしまう。
あぁ、そっか、彼女の言う通り、私たちは親友なんだ。それは丁度同じ場で、表面だけの友達関係で飲みに行った一昨年の夏とも、或いは由紀菜さんの一件で一気に関係がぎくしゃくした去年のこの時期とも違う、むしろそれらを乗り越え築き上げたからこその関係、もとい冗談であった。
「……そんなくだらないこと話してるぐらいなら、音楽に打ち込むよ!」
それまでの気遣いと警戒のしこりが一気に解け、途端に私は晴れやかな表情で濡れそぼった道を駆けた。
「くだらないことって……あんたが言い出しっぺでしょ!? こら、急に走り出すな!」
飽きが入りながらも、彼女の安堵した声が背後から聞こえる、しかし私は足を止めなかった。丁度、堂を抜けたところで、かつての写生会に来たカッパ姿の園児たちの列が見つかった。私は一層、面白くなって、追いかける繭とともに、キャンパスまでの道を疾走した。
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