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 駅中で軽い昼食を済ませ、京浜東北線に乗り換えて数分経つと、あっという間に最寄り駅に到着した。半年ぶりか。改札抜けてすぐのNewDaysと、以前と同じ「資格試験絶対合格!」の駅中の広告を眺めながら、私は初春の昼下がりを思い起こす。

 あの時は何も考えず、ただ麻里江さんの後ろに、金魚の糞のようについていったものだが。私はペットボトルで喉を潤すと、おもむろに、ブレスレットの下がった左腕で、スマホのマップアプリを開く。三島湯、目的地を確認し、経路表示を起動させると、私は一つ息を吐き、目の前の無数のサラリーマンと共にロータリーへ繰り出した。


 雨脚の増す駅前の繁華街を抜け、途中何度も庇のある場所で、現在位置を確認したのもあってか、目的地はアプリの到着予測時刻の実に倍以上かかった。

 それでも煙がかった川を越え、住宅街の間、ビル型銭湯が見えると、ようやく安心する。心無し賑わいを見せたエントランスには、例の巨大なロック鳥の壁画の下、

『武蔵藝術大学院 杉中佳奈子展』

 黒板の一画を切り取ったような、小さな立て看板がかけられていた。絵画展? 少し不思議に思いながら、とにかくも自動扉を抜け傘をしまうと、

「いらっしゃいませー。すいません、今男女問わず、サウナ室は満席――」

「あ、あの……お久しぶりです……随分時間が経ってしまいましたが、ひとっ風呂浴びに来ました」

 フロント内、例の低い地声にブルーアッシュ髪の女性にぺコンと頭を下げると、彼女ははてと首を傾げる。二月に麻里江さんと来ました小川、と述べたところで、彼女は途端に閃いたように人差し指を示し、

「あー! 前にまりちゃんと来た、音大生さんか!? ごめん、今日さ、絶賛イベント中で、あまりゆっくりは出来ないのよ」

「みたいですね、一応HPには載っていなかったのですが。絵画展? 凄い、多くの日本画が!」

 フロントの横、かつて彼女が書類をぶちまけていた休憩所には、数名のサウナ待ちの客と人々が屯していた。そんな彼らの真横や頭上には、キャンバスや壁に飾られた無数の断片的な(それでいて一層彩りに満ちた)岩絵具画が四・五点、展示されていた。

「そう、うちの後輩たっての希望でね、お披露目の場を提供してやったのよ。だから、ごめんだけど、色々とお話するなら、また別の機会に」

 ロッカーの鍵が手渡されると、私は「全然です。では今日はゆっくりお風呂に浸からせてもらいます」と再び頭を下げる。当初は、悩みや相談を打ち明ける予定であったが、それは図らずも、先程の大内先輩との会話で、ほぼほぼ解消された。

 脱衣所の暖簾を潜る直前、背後から「美香―、佳奈子のやつ、今、起きたとこってー!」という甲高い男性の嘆きが聞こえた。なんか、まるで浜田湯みたいだなぁ。かつての客としての自分を思い起こすと、それは安心というよりも、どこか物足りなく寂しかった。

 

 南米の鳥が描かれた脱衣所を抜け、湯の張られた浴槽は、やはり紛うことなき絶品であった。入口すぐのサウナ室には(私が目を疑う程)長蛇の列が出来ていたが、それを尻目にカラン・ラジウム泉・炭酸泉を利用すると、いずれも爽やかでゆったりした優しい空間が広がっていながら、二階の木の巣で囲まれた露天風呂は幾分の非日常感もあった。

「ここは凄い……博人や由紀菜さんなんか誘ってまた来よう」

 富士とキジ画に合掌すると、私は(これまた洗練されたデザインの)化粧台で支度を整え、脱衣所を退く。さて、せっかくだし、件の日本画を鑑賞して帰ろう。暖簾を抜けると、そんな至福に満ちた浴場とは打って変わり、先程の男性が申し訳なさげな顔で、数名の客に平謝りしていた。

「すいませーん、諸事情で到着が少し遅れます。今向かってますので、少々お待ちください」

「お風呂凄く気持ち良かったです。あれ、何事ですか?」

 一瞬手が空いていたのか、新商品のPOP(フロント前の備品売場にはいずれも彼女お手製のPOPが並べられていた!)を描いていた彼女にそっと声をかけると、特に表情を変えることなく、

「そ、でも今は結構込み合っていたでしょー……あれねぇ、我らが画家様が一七時に来るって手筈はずだったけど、少し遅れるって話。朝まで別の展示用の絵を描いてたって。せっかくの機会を何考えてんだか」

 彼女は溜息を吐きながら「帰る? 良かったら、作品少し見てってよ。後、もし時間があれば、佳奈子とも少し話してったら」

 せっかく練馬から来てくれたんだしー、と言ったところ、数名の屈強な体格の青年がすっきりした顔で、ロビーに姿を現した。

「ありがとうございましたー、あ、タオル回収しますね……はい、次はサウナ待ち一八番と一九番の方―」

 不愛想ながら、それでもテキパキと再び仕事に向き合う彼女に遠慮して、私は休憩所へと歩を向ける。

 そこには六名の利用客(番号札を持っていたのは一人だけ、後は画家の関係者?)が、皆何とはなしに件の展示を眺めていた。私もそっとその一味に加わり、

「……」

 それは、非常に抽象的な絵画であった。自室や他家の庭、街の一画・新宿駅といった舞台が色鮮やかに描かれていながら、いずれも、個々のパーツがまるで全体から浮いているように、不調和で釣り合っていなかった。

 まるで日常から疎外された人が、それでもそこに溶け込みたがるような……刹那的に胸が締め付けられたところで「ごめん、遅くなったー」というひどく鼻がかった声が、背後から響いた。

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