3-1

 浴槽で十分泣いて、脱衣所で着替える頃には、胸に留まっていたしこりは幾分消え去っていた。

『反省したり、前向きになったり 銭湯で人は成長するのかも』

 軽いメイクだけ済ますと、ふと隣に貼られた浴場組合ポスターに深く共感する。まさに、目まぐるしい日々と感情を、お風呂は一度立ち止まらせてくれる。

 浜田湯に来て、やっぱり良かったな。脱衣所を抜け、待合室へ戻ると、丁度部活帰りの学生や夕飯前にひとっ風呂の大人たちで、室内は活気に満ちていた。

「あ、帰る!? 調子……大丈夫そ?」

 番台で忙しそうにしている博人に気を利かせ、そっと出口へと向かいかけたところ、目ざとく〝彼〟に発見される。

「うん。問題はなんも解決していないけどね。でも、凄く、気持ちは楽になった」

「そっか……ん、それは良かった。頑張るのは良いけど、体も心も壊れたら、元も子もないからね」

 ありがとう。と、今度こそ踵を返しかけたところ、備品売場の一画、夜の大観覧車が描かれたポップな冊子が目に入る。

「あれ……これ?」と言いかけたところ、〝彼女〟は「ごゆっくり」と二人の幼女と老婆を脱衣所へ送り出した後、

「あー、それ、麻里江さんが作った銭湯紹介パンフ。先日、三島湯の永沼さんが持ってきてくれてさ」

 練馬区の銭湯に置くのもどうかと思ったんだけど、まぁせっかくだし。

 触覚がかった前髪をぷらーんと垂らしながら、にへらと首を傾げる〝彼〟に、私はその一冊を手に取る。あぁ、さっき太田さんが言っていたのは、このことか。

「あ、あと、そう。さっき、恭介にも渡したんだけど……」

 と〝彼女〟は、後ろの物置から、小さな紙袋を取り出す。その中には、例のビーズで編まれたブレスレットが、数点煌めいていた。

「由紀菜お手製のブレスレットが、先日届いてさ。今年はあけびちゃんにも渡してって、言われてたんだけど、すっかり忘れてた」

 はい、と手渡されたそれは、丁度照明の光に反射し、虹色に輝く。「え、本当に貰っちゃっていいんですか」驚いた声でそう発したところ「うん、仲間だから、だって」といじらしく微笑んだ。

「すいませーん! インスタに投稿したくって、脱衣所の一画、撮影しても良いですかー?」

 折しも、風呂上がりの至福な表情を浮かべた若者が、律儀に〝彼〟に声をかけたところ、私は今度こそ、それを左腕に垂らし、その場から離れる。

「ちょっと、お姉さん、発券機の調子が良くないよ」

 恰幅のいいおばちゃんが不満を漏らしたところ、「はーい、今、確認しますねー」とランドリーから太田さんがようやく姿を現す。

 私はこっそり微笑むと、おもむろに左手を掲げ、入れ替わるように日の沈みかけた表へ繰り出した。


 それから一週間後、前期で唯一、午前の一コマを終えると、私はいつも通り予約した練習室へ向かった。

 やっぱりどうしても、転調で力んでしまうなぁ。最近の課題がやはり直らず、後ろ髪引かれながらも、予定通り二時間で練習を切り上げた。

 地上へ出たところ、予報に反し、雨脚は一層強まっていた。うわぁ、最短距離で駅まで向かうか。とガレリアを抜けたところで、丁度事務室から出てくるボブカットの女性が目に入った。

「……大内先輩!」

「お、小川さんじゃーん、お疲れ……練習終わり? 相変わらず、頑張ってるねー」

「いえいえ、全然ですよ。先輩は……教育実習ですか、いつから行くんですか?」

 小脇に挟んだ『教育実習録』と書かれたポートフォリオに目を向けると「来週からだね、この後もう実家に帰る予定」と彼女は途端に溜息を洩らし、

「でも憂鬱でしかないわ。先日、打ち合わせで七年ぶりに母校訪れたんだけどさ。もう吹部のレベルが下がってるのなんのって。おまけに音楽室も前よりボロくなってるし……まぁ、田舎の公立中だと、そこはしょうがないか」

 恥とばかりに、ポートフォリオをトートバッグにしまう代わりに、彼女は折り畳み傘を取り出す。

「湘南なのに、田舎なんですか」

 私が驚いた声で、肩を並べると、「田舎、田舎、特に藤沢より西は」と彼女は吐き捨てるように、一歩前へ急いた。

「ところで、小川さんも帰り? 途中まで一緒に帰る?」

 東門へと繋がる中庭の前へ来たところで、先輩は少し外の様子を伺うように、一度立ち止まる。

「です。私もこの後、横浜で予定がありまして。天気予報、小雨程度だったんですが、やっぱこの時期の予報は当てにしちゃ駄目ですねー」

 念のため持参した大きな傘を開くと、私たちは揃って帰路につく。学内を出ると、雨でもなお、中目黒の街は、色とりどりの花が揺れ、賑わっていた。

「先日の門下会だけどさ。珍しく焦っていたよね」

 駅に入ると、彼女は全く雑談でもするかのように、こう話しかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る