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翌日の夕方、私は久方ぶりに浜田湯に訪れた。
丁度この時間は、一番客が上がって、比較的ゆったりしてる……案の定、裏口を覗き込むと、ボイラーの調整を終えた太田さんが、のんびり一服つけていた。
「太田さん、こんにちは……」
「ん? おーっ!……小川さん……だっけ?どうしたんです、急に、こんなとこに来て?」
「お久しぶりです。いや、久々に、ひとっ風呂浴びに来ました。本当は正面から入るべきなんですが、バイト時代の癖で……」
すいませんと一礼したところ、彼は「あー、そう。いや、全然、ゆっくりしていってよ」と顎髭をたくわえた口元を小さく綻ばせた。「丁度、博人さんと交代したばっかだし、今の時間はとりわけ空いてるよ」
「ありがとうございます……どうでもいいですけど、今時、紙タバコなんですね。今は皆電子タバコですけど、ぶれない姿勢、私凄く好きです」
紫煙ののぼる彼の左手を眺め、思わず呟いてしまった瞬間、みるみる、顔が上気する。「あ……ごめんなさい! 私ったら、急に!? いきなり生意気な口たたいて、本当にすいません!」
といったところ、彼は一瞬、キョトンとした顔を浮かべながら、やがて人目も憚らず、ケラケラと笑い出し、
「へぇー! 音大生のお嬢さんが、そんなこと言うんだ! もしかして吸うの? 俺の周りなんて、電子タバコですら、露骨にしかめっ面するやつばかりなのに」
「吸わないです! あ、いや、正直、タバコ自体、良い印象はないんですが……でも、なんかこう、ボイラー室の前で、煙をくゆらせている様は、なんとなく凄く格好いいなと思いまして」
なんなら匂いは、電子より不快だ。でも、これまで身近に喫煙者がいなかった分、昨今のタバコ事情と合わさり、思わず想いを呟いてしまっていた。
「ははっ! やっぱり君、面白いねぇ!! さすがに博人さんのお相手だけあるわ……でも、仰る通り、こっちのが一息つけてる感はあるんだよね。ま、それより、親父の模倣ってのが大きいんだけど」
「あ、確か太田さんのお父さんも、お風呂屋さんを」
「そう、千葉の佐倉の方でね。まぁ、親父が死んだ十年前に廃業してるけど」
そう述べると、彼はシケモクをさも当たり前のように、携帯灰皿へと潰し入れる。その過程自体、私には非常に新鮮であった。
途端に彼は、三白眼の視線を母屋に向ける。そして一瞬逡巡した後、検討外れだったら、申し訳ないんだけどさ、と前置きした上で、
「小川さんってもしかして、いずれまた銭湯で働きたいと思ってる?」
「え、なんでですか? 私の表情が、そんなに『またここで働きたい』って訴えてました?」
と我ながら見事に冗談で返したところ、胸の奥がギュッと傷んだ。彼は「いや、そんな意欲的な目は今の君はしてないよ」とまた一笑に付した後、
「この前さ、永沼さんがうちにきて、博人さんがいないから、少しだけ相手したんですよ。その時、銭湯の人手不足の話題で、少しそんな話にもなったから、ちょっと確認」
というと彼は、特に表情を変えることなく、「さて」と立ち上がる。筋肉質な長身を恐れさせないほど、その微笑は澄んでおり、
「順調に譲り受けたり、サポートするならともかく、やっぱり銭湯経営は、女性がやるもんじゃないよ。一から参入なんて、本当無謀……まぁ、この『浜田湯』は、湯屋だけで見ても、本当良い場所だから、博人さんがどう思ってるか知らんけど、可能ならあの人を手伝ってあげたら」
かつての誰かのデジャブとばかりに、淡々と呟くと、
「んじゃ、ぼちぼち休憩戻りますんで、ごゆっくり~」と、無造作に携帯灰皿を胸元に突っ込み、ランドリーの方へと向かっていった。
私は、そのダンディな様子に呆気に取られながら、内心はかなり動揺していた。
せっかく気持ちを一新しようと、浜田湯に来たのに、一層汚い自分が増してしまった。
「いや、まずは最高の演奏をすること、そうじゃなければ何も始まらない」
自分に暗示をかけるように呟くと、スマホを手鏡モードにして、にっこり微笑む。
大丈夫、まだ笑える。私は「よし」と一人気合をつけると、急ぎ足で表へと向かった。
「いらっしゃ――え、どうしたの、急に?」
「わー、あけびちゃん、久しぶりー! うっひゃー、レースのシャツブラウス、夏の始まりって感じで良いね!」
暖簾を潜ると、丁度一番風呂上がりの恭介さんが、番台の博人と話す、変わらない光景がそこには広がっていた。しかし、
「いや、なんで皆そんな反応するんですか……えー、昼間っから飲酒……」私が苦笑いを浮かべながら、ビール(二本目!)を携える恭介さんの向かいに座ると、彼は「今日は飲むんだよ」と、悪びれる素振りも見せず、六色のブレスレットのさがった右手で、グッと缶を呷った。
「恭介、この春、提出した脚本がついに、公募に通ったんだってさ。小さなラジオドラマなんだけど、連絡が来た瞬間、うちに真っ先に駆け付けてくれた」
ようやくとばかりに溜息を吐く博人をよそに、「本当、良かった~……誠にもこれが最後って約束してたから、四年目にしてやっとだよ……」と顔を真っ赤に染めながら、辺りを憚らず涙ぐむ。
「お……おめでとうございます! やっぱり恭介さんには才能があったんですよ! これまで没だった企画ネタも、決して無駄じゃなかったんですね」
と、喜ばしい感情とは裏腹に、内心はチクリと痛んだ。
「でも、ようやくスタート地点に立ったんですものね。ここからが茨の道……恭介さんなら大丈夫だと思いますけど、登口を見つけたぐらいで、大はしゃぎしないでください」
「あけびちゃん、言い方、きつくない!? って、過酷な音大環境で生きている人からしたら、説得力が違いますかー、ハハッ……はい、肝に銘じます」
湯上がりの叔母さん方の、怪訝な表情と合わさり、一気に夢から覚めたかのような彼は「調子に乗ってないで、ぼちぼち帰って、戻ってきた原稿チェックします」と浴槽セットをひっつかむと、居心地悪げに腰を上げた。
「でも……私、絶対聴きますから! 恭介さんのラジオドラマ、凄く楽しみにしています!」
しまったと思いながら、もう一つの心の内を叫ぶと彼は「ありがと」と愛想笑いを浮かべながら、トボトボ通りへと出ていった。
「……あけび。なんか学校で嫌なことあった?」
入れ替わるように、休憩所へと腰掛ける叔母さん方に、〝彼〟はすいませんとビニール袋を手にすると、私もそこに空の缶を入れる。
「ちょっとね……でも、今日は本当に、息抜きでお風呂に入りに来ただけ、やっぱり駄目?」
「まさか、というか、いつでも入りにきなよ。前に厳しいこと言って、『浜田湯』に来られなくなったのなら、それこそ僕の望んでることじゃない……」
それ以上、追及してこず、再び番台へと向かう〝彼女〟に、私は「うん」と涙腺が緩みかけ、慌てて脱衣所へと向かった。
最低だ。折しも人がいないのを幸いに、私は両手を顔に覆っていた。
銭湯できっかけを掴むどころじゃない。今の私は、他人の喜びも素直に祝えない大馬鹿野郎だ。
ぐちゃぐちゃの私の内心をよそに、脱衣所は、優しい粒子が周囲に飛び交っていた。せめて、一旦リセットしようと、私は思考を停止すると、少しでも内なる淀みが流れるのを願いつつ、風呂場へと足を踏み入れた。
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