2


    2


 翌日の夕方、私は久方ぶりに浜田湯に訪れた。

丁度この時間は、一番客が上がって、比較的ゆったりしてる……案の定、裏口を覗き込むと、ボイラーの調整を終えた太田さんが、のんびり一服つけていた。

「太田さん、こんにちは……」

「ん? おーっ!……小川さん……だっけ?どうしたんです、急に、こんなとこに来て?」

「お久しぶりです。いや、久々に、ひとっ風呂浴びに来ました。本当は正面から入るべきなんですが、バイト時代の癖で……」

 すいませんと一礼したところ、彼は「あー、そう。いや、全然、ゆっくりしていってよ」と顎髭をたくわえた口元を小さく綻ばせた。「丁度、博人さんと交代したばっかだし、今の時間はとりわけ空いてるよ」

「ありがとうございます……どうでもいいですけど、今時、紙タバコなんですね。今は皆電子タバコですけど、ぶれない姿勢、私凄く好きです」

 紫煙ののぼる彼の左手を眺め、思わず呟いてしまった瞬間、みるみる、顔が上気する。「あ……ごめんなさい! 私ったら、急に!? いきなり生意気な口たたいて、本当にすいません!」

 といったところ、彼は一瞬、キョトンとした顔を浮かべながら、やがて人目も憚らず、ケラケラと笑い出し、

「へぇー! 音大生のお嬢さんが、そんなこと言うんだ! もしかして吸うの? 俺の周りなんて、電子タバコですら、露骨にしかめっ面するやつばかりなのに」

「吸わないです! あ、いや、正直、タバコ自体、良い印象はないんですが……でも、なんかこう、ボイラー室の前で、煙をくゆらせている様は、なんとなく凄く格好いいなと思いまして」

 なんなら匂いは、電子より不快だ。でも、これまで身近に喫煙者がいなかった分、昨今のタバコ事情と合わさり、思わず想いを呟いてしまっていた。

「ははっ! やっぱり君、面白いねぇ!! さすがに博人さんのお相手だけあるわ……でも、仰る通り、こっちのが一息つけてる感はあるんだよね。ま、それより、親父の模倣ってのが大きいんだけど」

「あ、確か太田さんのお父さんも、お風呂屋さんを」

「そう、千葉の佐倉の方でね。まぁ、親父が死んだ十年前に廃業してるけど」

 そう述べると、彼はシケモクをさも当たり前のように、携帯灰皿へと潰し入れる。その過程自体、私には非常に新鮮であった。

途端に彼は、三白眼の視線を母屋に向ける。そして一瞬逡巡した後、検討外れだったら、申し訳ないんだけどさ、と前置きした上で、

「小川さんってもしかして、いずれまた銭湯で働きたいと思ってる?」

「え、なんでですか? 私の表情が、そんなに『またここで働きたい』って訴えてました?」

 と我ながら見事に冗談で返したところ、胸の奥がギュッと傷んだ。彼は「いや、そんな意欲的な目は今の君はしてないよ」とまた一笑に付した後、

「この前さ、永沼さんがうちにきて、博人さんがいないから、少しだけ相手したんですよ。その時、銭湯の人手不足の話題で、少しそんな話にもなったから、ちょっと確認」

 というと彼は、特に表情を変えることなく、「さて」と立ち上がる。筋肉質な長身を恐れさせないほど、その微笑は澄んでおり、

「順調に譲り受けたり、サポートするならともかく、やっぱり銭湯経営は、女性がやるもんじゃないよ。一から参入なんて、本当無謀……まぁ、この『浜田湯』は、湯屋だけで見ても、本当良い場所だから、博人さんがどう思ってるか知らんけど、可能ならあの人を手伝ってあげたら」

 かつての誰かのデジャブとばかりに、淡々と呟くと、

「んじゃ、ぼちぼち休憩戻りますんで、ごゆっくり~」と、無造作に携帯灰皿を胸元に突っ込み、ランドリーの方へと向かっていった。

 私は、そのダンディな様子に呆気に取られながら、内心はかなり動揺していた。

 せっかく気持ちを一新しようと、浜田湯に来たのに、一層汚い自分が増してしまった。

「いや、まずは最高の演奏をすること、そうじゃなければ何も始まらない」

 自分に暗示をかけるように呟くと、スマホを手鏡モードにして、にっこり微笑む。

 大丈夫、まだ笑える。私は「よし」と一人気合をつけると、急ぎ足で表へと向かった。


「いらっしゃ――え、どうしたの、急に?」

「わー、あけびちゃん、久しぶりー! うっひゃー、レースのシャツブラウス、夏の始まりって感じで良いね!」

 暖簾を潜ると、丁度一番風呂上がりの恭介さんが、番台の博人と話す、変わらない光景がそこには広がっていた。しかし、

「いや、なんで皆そんな反応するんですか……えー、昼間っから飲酒……」私が苦笑いを浮かべながら、ビール(二本目!)を携える恭介さんの向かいに座ると、彼は「今日は飲むんだよ」と、悪びれる素振りも見せず、六色のブレスレットのさがった右手で、グッと缶を呷った。

「恭介、この春、提出した脚本がついに、公募に通ったんだってさ。小さなラジオドラマなんだけど、連絡が来た瞬間、うちに真っ先に駆け付けてくれた」

 ようやくとばかりに溜息を吐く博人をよそに、「本当、良かった~……誠にもこれが最後って約束してたから、四年目にしてやっとだよ……」と顔を真っ赤に染めながら、辺りを憚らず涙ぐむ。

「お……おめでとうございます! やっぱり恭介さんには才能があったんですよ! これまで没だった企画ネタも、決して無駄じゃなかったんですね」

 と、喜ばしい感情とは裏腹に、内心はチクリと痛んだ。

「でも、ようやくスタート地点に立ったんですものね。ここからが茨の道……恭介さんなら大丈夫だと思いますけど、登口を見つけたぐらいで、大はしゃぎしないでください」

「あけびちゃん、言い方、きつくない!? って、過酷な音大環境で生きている人からしたら、説得力が違いますかー、ハハッ……はい、肝に銘じます」

 湯上がりの叔母さん方の、怪訝な表情と合わさり、一気に夢から覚めたかのような彼は「調子に乗ってないで、ぼちぼち帰って、戻ってきた原稿チェックします」と浴槽セットをひっつかむと、居心地悪げに腰を上げた。

「でも……私、絶対聴きますから! 恭介さんのラジオドラマ、凄く楽しみにしています!」

 しまったと思いながら、もう一つの心の内を叫ぶと彼は「ありがと」と愛想笑いを浮かべながら、トボトボ通りへと出ていった。

「……あけび。なんか学校で嫌なことあった?」

 入れ替わるように、休憩所へと腰掛ける叔母さん方に、〝彼〟はすいませんとビニール袋を手にすると、私もそこに空の缶を入れる。

「ちょっとね……でも、今日は本当に、息抜きでお風呂に入りに来ただけ、やっぱり駄目?」

「まさか、というか、いつでも入りにきなよ。前に厳しいこと言って、『浜田湯』に来られなくなったのなら、それこそ僕の望んでることじゃない……」

 それ以上、追及してこず、再び番台へと向かう〝彼女〟に、私は「うん」と涙腺が緩みかけ、慌てて脱衣所へと向かった。

 最低だ。折しも人がいないのを幸いに、私は両手を顔に覆っていた。

 銭湯できっかけを掴むどころじゃない。今の私は、他人の喜びも素直に祝えない大馬鹿野郎だ。

 ぐちゃぐちゃの私の内心をよそに、脱衣所は、優しい粒子が周囲に飛び交っていた。せめて、一旦リセットしようと、私は思考を停止すると、少しでも内なる淀みが流れるのを願いつつ、風呂場へと足を踏み入れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る