第一〇章 一七/六〇〇
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「やぁ、見事二人にこてんぱんにやられたねぇ。いやはやあの子たちが、あそこまで仕上げてくるとは、僕も予想外だった」
門下演奏会後、初めてレッスン室のドアを開けると、グランドピアノの横に立った恩師は、おくびにも出さず、相変わらずニコニコ笑っていた。
「先生は、生徒を慰めるという感情が無いのですね……もし、今の言葉で、私が再び、情緒不安定になったら、どうするんですか」
「ハハッ、慰めるのは、僕じゃなく、もっとふさわしいお相手がいるだろう。こんな発言で、メンタルがやられているようじゃ、そもそもロビコンになんか推薦してない。本番まで一月半、十分巻き返すことは可能だ」
そう、最終判断は来月末の実技試験。そこで講師が優秀生を一~二名推薦し、それを他の講師が承諾するか否かで、計六〇〇名前後のピアノ学生の内、一七名のロビコン演奏者が決まる。とはいえ、
「でも、三浦君は半年、ウィーンで生活し、得た圧巻の表現力でしたし、香澄ちゃんは自身の切り札ともいえる最高の音色でした。難易度もやや劣り、ロシア留学もしてない私が二人に勝つことなんて――」
「あけび」
そこで彼は、声のトーンを落とすと、おもむろにその笑みを消す。私が咄嗟に背筋を正すのも気にせず、彼は射るように私を眺め、
「確かに……今の君は、技術的にも、その先の音においても、まだまだ二人には差がある。
でも、自惚れたことを言ってはならないよ『ピアノ協奏曲第一番』が『バラード第一番』より平易だから勝てない? 僕をあてつけるぐらいなら、一生『舟歌』あたりでも弾いてなさい。
いいかい、スキルはともかく、僕は去年の若手パフォーマーピアノコンクール』や年初の『ピアノリサイタル』並みの表現力が、『二・三楽章』に融合出来れば、十分二人に勝てる。そう思って、この曲を承諾したんだ。二度と曲や環境を、言い訳にしてはならない」
珍しく厳しい口調で、所定の席へ落ち着くと、すっかり乾ききったはずの涙が再び零れ落ちる。「ごめんなさい……私全然……」そこでようやく、彼は平静の調子に戻り、
「小川さん、君はあまりにも真面目で、純粋なんだよ……まぁ、そこが君の良さではあるんだが……技術力はここから、どうとでもなるとして、どうだい、最近、浜田湯や辻無さん、そのお友達の皆さんは元気そうかい?」
準備を進めながら、いつもの飄々とした声音で尋ねると、私もようやく涙を拭い、隣のピアノ椅子へと腰を据える。
「はい……おかげさまで、パートナーとは順調にやれています……ただ最近は、この練習や課題に忙しく……浜田湯やイベントには中々……」
「ふぅん……それじゃ、他の課題は暫く弾かなくていいからさ。今度の休みでも、久々に顔を出してきたらどうよ? 小川さんは、徹底した曲の解釈や音楽環境より、人々の日常から得た活力が何よりの武器なんだから」
労わるように優しく微笑む恩師に、私もようやく気づかされる。そうだ、チャイコの『ピアノ協奏曲』たればこそ、そこも意識していかなければならないはず。なのに、いつの間にか(博人との休日はともかく)学校の課題や演奏に気をとられ、外との生活を十分疎かにしてしまっていた。
「さて、そうは言っておきながら、一層厳しく指導していくよ。まず第二楽章、冒頭の強弱――」
促されるまま、私は慌てて楽譜を取り出す。結局、残りの時間は徹底したダメ出しに費やされたが、練習後は茫漠とした不安はいつの間にか消え去っていた。
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