8-2
C(ド)音が長く響いた瞬間、三浦君の創生した余韻が忽ち消え失せる。彼女のターンが始まったのだ。そうするだけの力を、既にこの音は秘めている。
ミステリアスな、これからの物語の壮大さと悲劇性を予感させる序奏が始まる。
『バラード第一番』
近年あまたのメディア作品で登場し、有名フィギュアスケーターも大会で使用したことから、私たち三人の選曲では、最も知名度の高い曲といっても良いだろう。
しかし。奇妙な不協和音によって、短い序奏が終始し、第一主題へと入る。引き続き音には悲壮感が篭っていながら、それを凌駕する高貴性も感じられた。
正直、彼女が、この曲を「ショパンの名曲中、二一年間弾いてこなかった数曲」の一つだったとは、意外であった。確かに本曲は、ショパンの曲でも難易度的に高いものではあるが、かといって最難程ではない。彼女のレベル的に、過去に弾いていてもなんら不思議ではなかった。
淡々と紡がれていた旋律が。徐々に加速していく! 前半の山場の一つ、劇的な経過部を、彼女の華奢な指が、まるで〝踊り舞う〟ように鍵盤の上を駆け巡る。スピードを駆使しながら、手首のスナップを利かせ黒鍵を速く押す正確性は、ショパンの特徴を熟知した奏者だからこそなせる技だ。
経過部が終わり、作曲者の代名詞ともいえる、美しい第二主題が奏でられる。既に聴衆は、彼女の麗しい演奏に釘付けであった。
本当に香澄ちゃんは、彼の音を理解している。そういえば、去年の門下演奏会でも彼女はショパンを弾いていたな。
あの時は確か、彼女お気に入りの『二四の前奏曲 第一五番』だったっけ。うん、そうだ、丁度今日のような天気にふさわしい、しっとりしながら、爽やかさの二面性を兼ね備えた曲を彼女は本当に優美に弾いていた。だからこそ私も、負けじと力強く幽玄的に『版画 雨の庭』を弾いたんだ。
あぁ、去年は三者三様、純粋に楽しみながら、演奏会に臨んでいたな。右端の二年席をちらりと眺めながら、一年前をふと思い返す。丁度繭との仲違いで苦しんでいた時、打ち上げでの二人とのとりとめない会話は、十分活力を貰った。三浦君からは励ましの檄が飛ばされ、席を離れた香澄ちゃんの好物を二人で死守していたっけ。
ん、好物? 私が疑念を抱いた瞬間、それを肯定するように、曲が一瞬止まり、やがて……弾けた!
え、もしやこれまで弾いてこなかった理由って!?
再現部。さらに、気品高い音が堂内に響き渡ると、彼女が創り上げた、祝福に満ちたメロディーは、なおのこと人々を虜にしていた。でも、それだけじゃない。ここからもう一つの難所。
一気に転調し、再び彼女の手指が、先程より一層、鍵盤の端から端へと飛び回る。八度のオクターブを難なくこなした彼女は、平然と三度、これでもかといわんばかりに、救いの無いほど美しく、流麗な音を紡ぎ続ける。
そっか。彼女は幾つかの好物を、来るべき時に備えていたんだ。高校時代の全国コン・卒業演奏・大学一二年の外コン・先日のピアノリサイタル、等それらに彼女がどれくらい比重を置いていたかは定かではない。
でも少なくとも、それら数多ある演奏の場で、初期ショパンの代表作ともいえる本作を避け続けてきたのは事実だ。そして在学時に四回しかチャンスの無い、ピアノ科にとっていわば夢舞台といえるロビコンの楽曲に、彼女はようやく満を持して、本曲をもってきたのか。
三浦君以上に、彼女も確実に、仕留めにきている。こっそり隣を見やると、普段からは想像もつかない程、彼は露骨に頬杖をつき、苦笑いを浮かべていた。
やっぱり隣に座って正解だった。出番直前にこれを一人見せつけられたら、不安で演奏にも支障をきたしていたはずだ。
曲はいよいよ最後のコーダへと向かう。一〇分近い、壮大な物語の終着点。Presto con fuoco! 火を吹くように速く! 彼女は、その小さな体をいっぱいにしならせると、あまねく黒い筐体にぶつけるように、最後の体力を降り注ぐ。
先程の転調を倍速で繰り返す。一音外れたが、聴衆には全く関係なかった。それを補うスピードと醸し出す旋律、縦横無尽に駆け回っていた音は、ようやく動きを止めると……怪しげな様相を呈しながら、オクターブの下行音階によって、劇的に幕を閉じた。
「すごい」
言った瞬間、全てが終わった。ひょっとすると、私なら勝てる。そんな甘い幻想は、目先の二人の演奏で、瞬く間に打ち砕かれた。
割れんばかりの拍手が起こる。それでもなお、舞台上の彼女は(最後の一音が外れたのを気にしてか)しきりに首を傾げていた。
壇上から退いたタイミングで私は、ようやく腰を上げる。結論私は、今の私にとって最善のチャイコを披露することは出来た。
しかしそれは、技術的にも表現的にも全く未熟なものであった。弾き終わった瞬間、聴衆の期待から落胆の視線が棘のように痛かった。すんでのところで、私は泣き出し、その場にくずおれたい衝動に駆られた。しかし、そうなったら、本当に敗者だ。
私はどうにか、平静の態で席へと戻ると、四年の輝かしい演奏に耳を傾ける。
その後、懇親会にも参加したはずだ。横山先輩や坂君と現代音楽を語り合い、二人とも会話した記憶は微かにある。でも、それは本当に断片的であった。
はっきり記憶が鮮明になった時、私は真夜中の濡れた街を背に、着の身着のまま、自宅のベッドでひとしきり泣き崩れていた。
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