8-1

 一〇分間の休憩が終わり、後半の部が始まる。堂内が再び薄闇に包まれると、三浦君がゆったりと舞台上へ歩を進める。

 椅子を調整し、パーマヘアを一つ掻き、一呼吸入れる。お決まりのルーティーンをし終えたところで、彼はそっと鍵盤に手を載せる。

『ピアノソナタ第一八番』

 後期シューベルトの内、傑作の一つに挙げられている(本人も多くの人に自賛したという)作品を、彼は穏やかに叙情的に奏でる。

 多用される和音の音を聴きながら、私はいつかの折「僕はあまり、作曲者に自身の境遇や経験は反映させない」と言っていた三浦君のモットーを思い起こす。

 そんな彼が、貧しい生活を強いられた、優しく気が弱いウィーンの鬼才を選曲したのは意図的かはたまた偶然か。いや、実際、比較的打鍵の強い音を得意とする門下内で唯一、しっとりとした演奏に定評のある彼が、別名『幻想曲』とも称される本曲を選んだのはいわば必然ともいえた。

 三浦君も本気で、今年のロビコンを取りにきている。

 第一主題が終わると、一転、転調し高音部による「変奏」と「展開」が繰り返される。一六符音符による滑らかなフレーズが流れたところで、私は頭に衝撃が走った。

「もしかして、この曲!?」

 私は咄嗟に、先程向けた背後に目をやる。うん、間違いない、連符は〝彼女〟の十八番だ。そうか、この演奏は三浦君一人が築き上げたものじゃない。この数か月、二人が協力し創り上げた結実でもあるのだ。

 展開部へ移ると、再び和声的な盛り上がりを見せ、幻想的な空間が生み出される。あぁ、この神に祈りを捧げるような厳かな旋律は、先日の笹川先輩同様、半年、作曲者と同じ音楽の都で生活した彼でこそ、出せる術だ。

 ふと、右前方に視線を向けると、彼は先程よりも一層、頭部を前後に揺らしていた。これは駄目だ。そんな私にとどめを刺すように、和音強打の鋭い難所が周囲にこだまする。

 やめてくれ、格の違いはもう見せつけられたから。心がギュッと締め付けられると共に、本能的に目が潤む。しかしそれは悲しみなんかじゃない。美しいものを目の当たりにした時、人の感性が昂ぶり生じるもの。そう、内心の乱れた邪な思いとは分離して、身体は正直に純粋であった。

 再現部に入り、黙想的で惑わすような音が、なおのこと執拗に、繰り返される。そしてようやく、彼らが創り上げた幻想がゆっくりと融解し始める。連れ戻された元の世界。後に残るのは僅かな虚脱性と心地良い喪失感であった。

 堂内は熱の帯びた拍手で包まれる。辞儀を済ませ、こちらへと踵を返す三浦君は、珍しく僅かに頬を緩ませていた。

 しかし、それもそのはず、たった数か月でこのクオリティだ。感嘆と同時に危機感を抱いたのは、私だけでは無かった。そんな彼と入れ替わるように、真っ白なドレスが視界を横切る。

「おいおい、まだ席に戻ってないのに、もう少し余韻を保たせてくれよ」

 ようやく隣席に腰掛ける彼よりわずかに早く、誰よりも勝気な彼女は(既に自分の世界に入っているようであった)、一礼を済ませると、さっとピアノ椅子へと腰掛ける。

 確かに三浦君の演奏は圧巻であった。しかし私たちは知っている、香澄ちゃんの本曲の選曲が、いかに彼女が本気度合いをみせているかということを。

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