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「ただいまー! ごめん、博人! こっちのひき肉、冷蔵庫にしまってもらえる? セールだからって、欲張りしすぎた……」
楽譜の入ったリュックとは別に、両手いっぱいのエコバッグを抱えて帰宅すると〝彼〟は、びっくりした顔で居間から姿を現す。
「おかえりー、うわ、なにその荷物!? 今日はうどんで済ませるんじゃなかったの」
「と思ったんだけど、セールにつられて、せっかくなら、ハンバーグでも作ろうかと思って」
食材を冷蔵庫に詰め込む作業を共にこなしながら呟くと〝彼女〟は「無理しなくても、うどんでもいいのに」とそっと嘆息する。
いや、どんなに練習で忙しいとはいえ、浜田湯定休日の週に一度、〝彼〟と過ごす夜は、どうしても美味しいものを作りたいものだ。
「大丈夫、今日は一つの山を越えたから……ちなみにご飯前だけどアイス食べたくない?」
「お、食べたい、食べたい。何、今日は本当どうしたのさ」エコバッグの底から出したカップアイスをちらつかせると、〝彼女〟は呆れ顔のまま、それでも幸せそうに微笑む。「そんな日があってもいいじゃん、食べよ、食べよ!」
〝彼女〟の好物のストロベリーを差し出しながら居間に入ると、卓には大量の書類が散らばっていた。「今日もイベントの素案を練ってた?」先程まで〝彼〟が座っていたであろう座椅子に腰掛けると「そうそう、ようやくコンセプトが決まった」と特に気にするでもなく、こちらも一仕事終えたように、一枚のプリントを提示する。
「へぇ~、アロマの香りで、思い思いのひと時を……今年はサウナ?」
「そ、今話題のサウナブームにかこつけて……本当なら今年も虹の湯をやろうかと思ったんだけど、昨秋のこともあるし、メディアにも取り上げられた以上、安易な発信は控えようと思って」
まぁ、レインボープライドのポスターは、店先に貼らせてもらうけどね。そう続けながらソファ椅子に移動した〝彼女〟は「う~ん、美味しい!」と満面の笑みで頬に手をやる。
相変わらず可愛いかよ、私は「ほら、買った甲斐があった」と仏頂面で応じながら、視線を上に向ける。春だしね、そんな理由でバッサリ切ったショートカットは、出会った頃のぶっきらぼうな〝彼〟を思い出す。
「そういや、あけびも一つの山を越えたって言ったけど、本田さんとの伴奏、今日はうまくいったんだ」
「まぁね、じゃなきゃ、ハンバーグやアイスには思い至れないよ」
部屋の角に移動させたグランドピアノを眺める〝彼女〟につられ、私も苦笑しながら数時間前の興奮を思い出す。
「これはいったんじゃない……!?」
転調からラストの高音、最も超絶技巧を要する箇所を熱狂的に吹き切った彼女は、放心しながら、それでも確かに手応えを掴んだかのように、声を大にした。
「うん、個人的には少しテンポが上がりすぎなように感じたけど良いんじゃないかな。それくらいの息継ぎの少なさが維持できるなら、最後の難所もこなせると思う」
「だ…よ、ね! よし、もう一回、忘れないうちに、この感覚を沁み込ませる!」
と言いかけたところで、私たちのスマホのアラームが鳴る。時間切れ、既に練習室の予約が埋まっている状況下、私たちは泣く泣く退室を強いられたが、散々合わせに苦労した部分で、私たちはようやくきっかけを掴んだようでもあった。
「そりゃそうだ。来週だっけ、彼女の三次予選?」
「そうそう、通過すれば次はいよいよ全国……まぁ、どちらにせよ、私もそろそろロビコンの方にも、注力していかないといけないんだけどね」
用済みの二つのカップを手にすると、窓際のゴミ箱へと放り投げる。視界の端に移った町並みは、既に多くが暖色に灯されていた。
「そんなこんなで、ごめんね、相変わらず、練習の日々で。今日もお外の桜は満開だっていうのに、全く花見も出来ない」
「全然、僕だって浜田湯の営業で、週一しか、ここに来られないんだから。というか、それを理解した上で、僕たちは付き合うことにしたんでしょ」
やや咎めるように、卓を片付ける〝彼〟に「だよね」と無意識に頬を掻く。
実際、交際初期の段階で、銭湯経営とピアノの練習でお互いに中々時間は取れないという話はしている。むしろその限られた時間で、共に大切な時間を過ごしていこうと私たちは決めたのだ。
と、丁度何かを閃いたかのように、片付けを済ませた〝彼女〟は冷蔵庫のドアを開ける。
「ちょ、今日は私の当番――」
おもむろに山積みされたひき肉を冷凍庫に移動すると〝彼〟はごく自然な口調で「花見も出来ないなら、すればいいんだよ。今日は外で食べよ。千川通りに気になっていたタイ料理屋があって、丁度あの辺りなら、ライトアップもされているだろうし」
そのまま外出用に着替える〝彼女〟に、私は一瞬呆けた顔を浮かべる。「ほら、行くよ。コンセプトが決まって、山を越えた、僕たちのお祝い」
にっこり微笑む〝彼〟に「それもありか」と苦笑いで窓辺を離れる。
大量のひき肉を購入し、カップアイスを二人でつついて、タイ料理屋へと繰り出す。そんな過ごし方も〝彼女〟となら悪くないか。私はダウンコートを再び羽織ると、スマホをいじる〝彼〟の手を取り合い、夜の街へと繰り出した。
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