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「課題曲ですが、可能ならもう一度、ピアノ協奏曲第一番、挑戦させてください!」
新年度のざわめきも徐々に落ち着きを取り戻しつつある学内。今期二回目のレッスンで、前期の練習曲を迫られた私は、開口一番、思わずこう叫んだ。
「ふぅん、リベンジするか……いいよ。僕ももう一度、小川さんだけのチャイコを聞きたいしね。となると、時間数的に――」
「はい、以前の第一楽章だと、制限時間的に厳しいので、その後の第二楽章及び第三楽章にチャレンジしようかと」
いよいよ今日から数か月、私にとって恐らく最後になるであろう、ピアノに対する真剣勝負が始まる。
四月九日に行われた繭のコンクール三次予選は、やはり後一歩というところで、全国大会の切符を逃した。
「くっそー、ムカつく! 少なくとも、最後の〝たれぱんだ〟よりかは、私の方が断然上手かったし。なによ、最後に審査員におべっかなんか見せちゃって。私も去り際に、ウィンクでもしてやれば良かった」
そう言いながら、最寄りの中華屋でピータンをつつく彼女に、私も〝全く辛くない〟麻婆豆腐を頬張る。
「そんな余裕、繭には無かったでしょ。最後なんてブレス無しで、もうへとへとだったじゃん。まぁその分、ラストは過去一、良い音出せてたと思うけど」
「そりゃ、そうだけどさ……うーん、だからこそ、余計に悔しいっていうか!」
彼女自身、口では悪態をつきながらも、内心私たちは、やり切った思いで一杯であった。
実際、三次予選の通過者は(最後の〝たれぱんだ〟はともかく)藝大・桐朋・国立の選ばれし学生がほとんどであった。一人目の奏者の音を聞いた瞬間、彼女は無意識に首を垂れていた。
なおもひとしきり、今日の愚痴を零していた彼女は、おもむろに杏露酒を呷る。やがて彼女は「まぁ、でも」と一つ吐息を漏らし、
「これで、私は一つ区切りがついたかな。もちろん、まだ一年はあるけどさ、ぼちぼち公務員のセミナーにも参加するか」
「あー、繭。結局公務員にするんだ」以前から耳にしていたとはいえ、彼女のはっきりとした断言に、思わず意外そうに呟くと「そりゃ、一応、音大まで行かせてもらった親への恩もあるしね。後、奨学金も返済しなきゃだし。再来年は侑磨と生活しながらここ東京で、コツコツ働いている予定」
しみじみと、店内の喧騒を見回したところで「でも、そんなことより」と語調を強め、「あけび、次はあんたの番だからね! 私は辿り着けなかったハレの舞台。この夏、思う存分、私を悔しがらせてよ!」
赤ら顔でビシッと指差されると「水滴が飛んだ」と、苦笑いでハンカチを取り出す。
でもそうだ。これで暫くは、伴奏から手が空く。新しいバイトもしていない、自由な時間が手に入った今こそ、或いは正面からピアノと向き合うことができる。
「それじゃあ今日から、今弾いているプーランクと並行して、練習始めていってよ。来月の門下演奏会で、どれだけ弾けるか楽しみだ」
彼はそう述べると、相変わらず飄々とした顔のまま、手元のiPadに記録を残す。その後、この春から練習している『ナゼルの夜会」を一度通すと、この日のレッスンは終了した。
それから一月、私は授業の課題に追われる一方、暇さえあれば課題曲の鍛錬に勤しんだ。
土日も練習に没頭する傍ら、週一回の博人との生活は、私にとって何よりの休息タイムであった。
「そういえば、ピアノ協奏曲の新曲、練習してるんでしょ。一回ぐらい聞かせてよ」
授業の無い昼下がり。我が家のソファ椅子でスマホのWEB漫画を眺めていた〝彼〟に「あー、ごめん」と録画の停止ボタンを押す。
「普段散々弾きまくっているからさ、今日ぐらいは許して」
「ふぅん、別に、いいけど」
私が罪滅ぼしとばかりに「珈琲のお代わりいる?」と尋ねると「うん、頂戴」と無垢な笑みを向ける。
先日のアロマ・サウナのイベントは無事大盛況に終わった。私も日中は、パレードの様子を眺め、夕方から浜田湯の応援に駆け付けたが、確かに翔さん、康行さんを始めとした当事者も多くはいたものの、館内は去年よりも増して〝全く自然〟といっていいほど、利用客は皆、数多のしがらみから解放され、癒されていた。
「ねぇ、博人ってさ……私がピアノとは異なる、別の目標を見つけた場合、出来る限りサポートしてくれる?」
二人分のマグカップを卓に置くと、少し躊躇いながらも〝彼女〟の肩に寄り添い、そっと口を開く。
「どうしたの急に? 何かやりたいことでも見つけた?」
区切りがついたのか、スマホを閉じた〝彼〟は、やや驚嘆した顔で呟いた。
「ううん、ちょっと思っただけ」私は手持ち無沙汰に、マグカップに手を伸ばすと、〝彼女〟の華奢な手がそれを制し、
「まぁ、でも、もちろん、ピアノを弾いているあけびに、惹かれたのは事実だけど、それは要素でしかないよ。もし、何か別の打ち込みたい事象が見つかったのなら、僕は全力でそれを応援する」
するりと、それでもはっきりと述べた〝彼〟の言葉に、私は「ありがと」と小さく苦笑し、唇を交わす。
「よし、気が変わった。それじゃ、披露出来るレベルにはまだ達していないけどさ、新曲、少しだけ聴いてくれる?」
恋人に未来の目標を肯定して貰った私は、気合を入れて今の目標と向き合う。
「本当に!? やった、というか素人には判別できないって」
呆れの入った声も気にせず、私は先程の残り香を感じながら、グランドピアノの蓋を開ける。
その背後で〝彼女〟は、心底幸せそうに、それを眺めると、いまだ湯気の上がったマグカップをそっと手に取った。
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