4-2
個室を出るや、鏡越しにいたずらっぽい笑みを浮かべる相手に、私は一瞬にして顔が上気する。
「笹川先輩――」
「久しぶり。どう元気だった? 木谷先生から聞いたよ、今年のロビコン出場に向け、色々と〝鍛錬〟してるんだってねぇ」
透け感のあるグレーのドレスワンピ姿の彼女は、随分お酒や香辛物を摂取しているはずが、全く涼しい美貌のままであった。むしろ微かに潤んだ瞳は、不純物を内に含んで、一層常より澄み切っているように見えた。
「はい。なんとか試行錯誤しています……あ、先輩、今日の演奏、本当に素晴らしかったです! やっぱ環境は音に反映されるんだなって、ショパンエチュードを聞いて改めて思いました」
自分の程度の低い決意を聞かれた恥ずかしさよりも、こうして彼女と直で話せる喜びが上回り、私はうっとりとした声で呟く。彼女は「ありがとう」と通り一遍の文句を、特に感慨も込めず答えた後、
「でも小川さんの方こそ、四月から三年だよね、早いねぇ。当面はこの夏のロビコンが目標だとしても、そっからもやっぱりリサイタルやコンクールには精力的に出ていくん?」
「いや、私、伴奏持っているんで。後、ピアノに打ち込むのは、この大学までって、決めてるんです」
苦笑交じりに、それでもはっきりと断言すると、彼女は「へぇ、そうなんだ」とやや意外そうに応じる。
「てっきり、小川さんや滝さん辺りは、変わらずピアノ続けていくイメージだった。あれ、教職課程持ってないよね。ということは、卒業後は一般企業?」
扉をちらりと眺めながら、洗面台にもたれこむ彼女に、私は「まぁ、そんなとこですかね。人と接する仕事を考えているんですが、正直まだ悩んでます」と恥じらい気も無く、はっきりと吐露する。
「へぇ、接客業―。まぁ、小川さん、とりわけコミュ力が高いって訳ではないけど、自然に相手を励ます才は長けているからね」
「才?」
先程の一件が脳内を巡っていた私は、彼女の肯定に小さく首を傾げる。それに気づくでもなく、彼女は訥々と、それでも幾分の懐かしさを思い出すように、
「そう、覚えてる? 一昨年の埼玉音楽祭で、落ち込んでた私にしてくれた星空解説。ピアノについて褒めるでもけなすでもなく、ただただ純粋に、夏の星座を教えてくれた貴女が、私にとっては凄く励みになった」
ドイツで奮闘する音楽家が見せた、一瞬の儚げな女性の顔に、あの夏の夜の記憶が瞬く間に蘇る。
「あぁ、あの時は慰めというより、先輩と星々を眺めるひと時に一人テンションが上がっていただけですよ。というか、あの一瞬の時間なんて、先輩からしたら、とっくに忘れているとばかり思っていました」
「忘れるわけないよ。そもそもあのひと時で勇気を得て、私はハインリヒ先生に再直訴して、見事コンクール出場のチャンスをいただけることになったんだから」
いつか小川さんに伝えようと思って、ようやく言えたわ、ありがとう。そっと胸をなでおろしながら、謝意を述べる彼女に、私は正直動転していた。
もちろんいくつかの要素があったとはいえ、彼女のドイツ行きに、あの秩父で共に眺めた夜空がそんな作用をもたらしていたなんて。
「まさかそんな、先輩の活力剤になっていたなんて、へびつかい座やさそり座の知識も捨てたもんじゃないですね」
おどけるように、真っ白な手の甲をさっと眺める私に、彼女は躊躇いながら、でもはっきりと、
「私さ、二二年間ほぼ、ピアノしかやってこない人生だったから、具体的に接客業が何たるかわかってないんだよね。だから、なんとなくなイメージなんだけど、バリバリのコミュニケーションお化けより、小川さんのような自然に人を元気づける相手の方が、お客さん商売には向いてると思うよね」
恥ずかしさを隠すように、先輩はもう一度扉を見やる。いつまで私たち喋ってんだか。彼女は苦笑いのまま、手持ち無沙汰に再度手を洗い、
「ちなみに、接客業って、具体的になんなの? いつか小川さんが働き始めたら、その時はぜひお邪魔させてよ」
「はい、もちろんです。あの、銭湯です。銭湯経営――」
と言った瞬間、入口の戸が勢いよく開かれ、
「万葉、大丈夫!? 十分近く経っても戻って来ないから、私たち心配してたんだよ……というか、小川さんと話すなら、卓で話しなよぉ。トイレで駄弁るって、高校生か」
そこには血相を変えた近藤先輩が心配そうに立ち尽くしていた。しかし彼女は即座に状況を理解すると、呆れ顔で苦言を呈した。
「ごめん、ごめん。小川さんと積もる話をしていてさ。木谷先生のイギリス時代の奥さんとの馴れ初め話、いい加減終わった?」
先輩はあっけらかんとそう呟くと、私の方など顧みることなく、彼女の下へと向かう。
その後、私は笹川先輩の島へと加わったものの、彼女とは二度とサシで語り合うことなく、やがて会はお開きになり、暫くして彼女はドイツへと去っていった。
帰りの池袋線は思いのほか、人の数はまばらであった。映画の談笑をするカップル、大きな買い物袋を携えホクホク顔の青年、二つのスマホを駆使するサラリーマン!
この時間帯にしては珍しく、そこには秩序だった空間が醸し出されていた。
「夏の星座を教えてくれた貴女が、私にとっては凄く励みになった」不意に先程の先輩の一言が蘇る。彼女にとってあの時の時間が、一体どれだけの影響を与えたか定かではなかったが、少なくとも私の人生を考える上で、その語は大きな自信になった。
と、その時、LINEの着信が鳴る。『突然ごめん! 明日空いてる? 今日練習した転調のとこだけど、可能ならもう一度合わせたい!』そこには、きたる三次予選に向け、少しでも練習に努めたい、繭の文面が読み取れた。
そうだ。自分の将来を思い描きながらも、まずは目先の目標に邁進しなければ。私は『大丈夫―、昼過ぎに予約入れとく?』そう一文を返すと、心地良い酔い心地のまま、リュックから何冊かの楽譜を取り出した。
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