4-1

「それじゃ、七奈子さんの卒業と万葉先輩の凱旋、或いは僕たち木谷門下の前途を祝して……乾杯!」

『かんぱーい!!!!』

 横山先輩の音頭を皮切りに、私たちは池袋の高級中華料理屋にて、一つ遅れの送別会諸々が行われた。

 近藤先輩の隣で、やや肩を落とし気味に、ビールを啜る木谷講師に少しだけ同情する。「さて、それじゃあ打ち上げといこうか。笹川君に近藤君、何か食べたいものはあるかい?」笹川先輩の演奏会が終わって程なく、レッスン室で暫く談笑した後、彼がおもむろに尋ねたところ、

「それなら私、池袋の四川料理屋に行きたいです! NEW OPENで話題になっていたところでドイツ行きが決まって、唯一心残りだったんですよね」躊躇いもせず、目を輝かせる彼女に「四川!?」と恩師の顔が曇る。「アホ! なんで、打ち上げが中華料理屋なのよ! というかうちの門下全員、辛いのに耐性がある訳じゃなし」

 近藤先輩が呆れ顔のまま、恩師の心奥を代弁すると「大丈夫、あそこは海鮮系や家族向け中華も充実してるから」と意にも介さない。「もちろん、一人でもダメな人がいたら取りやめるけどね」冗談交じりに彼女が辺りを見回したところ、意外にも一人として、反対の意見は出なかった。

 なんと、うちの門下(というよりこの場にいる全員)が辛いものに耐性があるなんて!

 いや、一人だけ全く駄目な人がいたな。私は、引きつった表情を珍しく露わにする講師に、そっと両手を合わせると、高揚する皆と共に夕方の繁華街へと繰り出した。

「あけび先輩、お疲れ様です! 笹川先輩のリサイタル、やっぱり凄かったですか!?」

 飲み会が始まって程なく、レモンサワー片手に、お通しのよだれ鶏をつついていたところ、先程合流した二年桑田茉菜が羨ましそうに顔を覗かせた。

「お疲れー。凄かったよ、一昨年の埼玉ピアノ音楽祭以上に、音に磨きがかかっていた。特に『イソップの饗宴』なんて、あれは欧州で暮らした人間にしか体得できない、圧巻の表現力だった」

「えー、いいなぁ! やっぱり、仮病使ってでも、聴きに来るべきだった……そもそも、もう少し早く知っていたら、調整出来たっていうのにさ」

 週二回、子供ピアノ教室でバイトする講師にあるまじき発言も、私は心底同情する。

 実際彼女は高二の夏、たまたま聴きに来たロビコンで、笹川先輩の演奏に衝撃を受け、都音を受験したという。さらには木谷先生の指導を決めたのも、同じ門下生として時を過ごしたいという、これは噂だ。

「自分の都合で、生徒に迷惑をかけるなんて、馬鹿なこと言うな。それに僕は『笹川先輩演奏会がある』って、事前にきちんと連絡を入れている」

 と、彼女からジト目で睨まれている相手は、全く臆することなく、実に美味そうに辣油たっぷりの水餃子を頬張る。

「二日前の連絡は『事前にきちんと』とは言わないから。というか、智也に聞いたの、一週間前でしょ。『健太郎から聞いてない?』って、なんですぐに連絡くれなかったのよ!」

「この一週間は、僕も代理伴奏やバイトの面接に忙しかったんだよ、悪かった」

「代理伴奏って、千葉の小さな福祉施設でしょ。それにイタリア料理の専属演奏バイト、見事落とされたんだってね」

「おま! なんでそれを――」

「含めて智也に聞いた」

「まぁまぁ、二人とも落ち着いて」仲裁役の坂君が、私用で不在となっているため、慌てて止めに入る。先輩がいる手前、二人はしぶしぶ鞘を収めたものの、一つ下の代、殺伐としすぎでは。

「あけび―、大内先輩が呼んでるー、久々に喋りたいんだってさ」

 と暫く話題探しに煩悶していたところ、渡りに船とばかりに、ジョッキを持った香澄ちゃんが赤らんだ顔でやって来る。

「あ、はーい。今行きます!」

 私は努めて自然な口調を心掛けながら、教育実習の悪態を叩く大内先輩の卓へと移動した。隣にいた三浦君は既にうんざりとした顔であったが、私は先程いた卓など見向きもせず、喜んで聞き役に徹した。


「ちょっとお手洗い……」

 彼女のバイト先の塾講の多忙さを聞き続けて十数分、話自体は何の変哲もない愚痴であったが、目前の麻婆豆腐に舌鼓を打ったためか、少し飲み過ぎてしまった。

「で、その時、あたしが言った訳よ。『この町はなかなかどうして、温かく素敵な町ですね』って、そうしたらその老人が町長さんでさ。ニコニコしながら『あぁ、そうか。正直な人にこそ、純粋な音は宿るのだろうか』って」

 上がり框を通過した瞬間、真横で後輩のどよめきが聞こえた。香澄ちゃんマジかよ、完全に二人を手なずけている。その背後では、笹川先輩が、近藤先輩や横山先輩と共に、木谷先生の熱い談義を、やや気怠げに聞いている。

「相変わらず私は、コミュ力なさすぎだよ……」

 先程の幸福はどこへやら、落ち込んだまま、個室に入ると、不意に懐かしい香りがした。あれこの香りは。辺りを見回して程なく、背後の物置に沈丁花が一輪生けられていることに気づく。「うわぁ、もうそんな時期か! よし、戻って引き続き、大内さんのろくでもない人生譚を――」

「あ、聞いちゃった! というか前から思ってたけど、ぶっちゃけ、小川さんと大内さんってあんまり相性良くないよね」

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