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 演奏会は、年二回、木谷門下の発表の場でもある大学の講堂を貸し切って行われた。

 ショパンエチュード二五の一〇・一一を前菜に、メインにアルカン『イソップの饗宴』を持ってくるあたり、あまりにも彼女らしくて、思わず笑みがこぼれてしまう。

「ベートーヴェンやブラームスとかじゃないんだー。ショパンは嬉しいけど、アルカンって。またマイナーな――」

 隣に座った香澄ちゃんの小さな落胆は、開始早々瞬く間に鳴りを潜める。深海を彷彿とさせる群青のドレスに身を窶した壇上の彼女は、非公式な身内相手とはいえ手加減はなかった。

 四オクターブ一音の強い音色が響いた瞬間、私の全身が粟立った。帰ってきたと思った。ピアノの女神に祝された天才が、帰ってきたのだ。彼女は、凡夫の苦悩を嘲笑うかのように、私の首筋にその鋭利な鎌の刃を突き付けた。

 背筋がゾッとした途端、中間部、美しい旋律が奏でられる。激しい主部から一転、まるで普段の先輩のような、上品で可愛らしい曲調が辺りに広がる。しかしこの時、私ははたと思った。

 いや、むしろ普段の温和な雰囲気こそ、彼女の偽りの姿ではないのか。

 と思った途端、それを肯定するかのように襲ってくる激しい強打。そう、こっちこそ真の笹川先輩の素性なのだ。再び降り注ぐ轟音に、私は恐れをなして慄く。それでも容赦なく、下げられた鎌の刃が再び振りかざされたすんでのところで、ぴたりと音が止んだ。

 凄い。埼玉ピアノ音楽祭とは比べられない程、音に深みが増している。

 私は恐怖と興奮で、全身が不随意的に大きく震えていた。静まり返った場内。奏者はそれを許さないかのように、右手の単調なイントロを弾いた後、そして激しい分散和音が、辺りに吹き乱れる。

 『二五の練習曲 第一一番 イ短調』ショパンの二七ある練習曲の中でも、最も難易度が高いと言われる独奏曲を、彼女はその持ち味の荒々しさを備えながら、自由自在に鍵盤を駆け回っていた。

 別名『木枯らし』とも称される、乾いた力強いメロディーに、かつて高三の冬、一週間程滞在した、パリの夕方の路傍が想起される。

 そう、彼女は既に、西洋の音色を身に付けていた。枯れ葉散る、物侘しい東洋の冬とは異なる、一面に金色の絨毯が敷かれた視覚的で雄大なヨーロッパの晩秋。

 それは一年間ドイツでの生活を経て、彼女が体得した賜物にほかならなかった。

 吹き荒んでいた寒風がピタリと止む。湿った日本の舞台ホールに戻ってきた私たちは、再び沈黙に閉ざされる。台横で少し手を湿らせた彼女は、一つ呼吸を整えた後、一気にメインディッシュを紡ぎ始めた。

 直前の超絶技巧とはあまりにも対照的な、全くの単純な主題。あぁ、これだよ。まだピアノを初めて間もない頃、祖母の和室のラジカセで聞いた、陽気でいて、おどろおどろしい珍曲が周囲を飲み込む。

 アルカン『作品三九 一二 ホ短調 イソップの饗宴』極めてシンプルな曲調ながら、ピアノ曲史上、演奏至難の一つに挙げられている練習曲を、彼女はまるで穢れを知らない無垢な少女のように、本当に楽し気に弾いていた。

 なるほど、そういうことか。何度も繰り返される主題は、当時随分滑稽なものだと不思議に感じていた。

 しかし、一〇年ぶりに聞いてみると、執拗に続くいくつもの変奏は、饗宴に招かれた無数の生物の喧騒と思えてならなかった。

 とある生物は喜びをさらにそのヴァイオリンで称え、また別の生物は豪華な街の饗宴に驚嘆する。競争に勝利した生物は、ワインで自らを祝し、直前に馳走を失した生物は、再び大きな肉塊にしゃぶりつく。

 それをイソップは、〝舌を食材とした料理〟を立て続けに振る舞うことで、盛大にもてなす。

 そう、この曲はありとあらゆる生物の賑やかな晩餐、もといそんな彼らを寛大にもてなすことで、やがてイソップ童話へと通じるイソップの着眼点の妙、さらにそれを、技巧を尽くして表現したアルカンの作曲性、そんな多重構造の音楽に思えてならなかった。

 気づけば私の目からは多くの涙で溢れていた。それは名演奏家に対する絶望なんかじゃない。ただただ美しいものを目の前にした人間が無意識に生じる、全身が熱を帯びたそれでいて純粋で心地よい反応。

 ピアニストという重い枷から解放された今なら分かる。音楽は人を幸せにする。その手段の一つとして、私たちはピアノを弾くのだ。それは私の原点でありながら、いつしか失いかけていた思いだ。

 突き付けられていたはずの鎌は、いつしかしなやかな天使の右手にすり替わっていた。最高音と最低音が不意に打ち鳴らされると同時に、観客の拍手が場内に沸き起こる。

 そうか、これは祝福なんだ。私は周りの目も気にせず、感涙にむせび泣きながら激しく、最後まで両の手で喜びを露わにしていた。

 そして当人のピアノ奏者は、そんな私の気持ちなどお構いなしに、軽く一礼すると、相変わらず自然な体で、壇上で涼し気に微笑んだ。

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