第二章 埼玉ピアノ音楽祭

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 八月二〇日、盆を過ぎてもなお、暑さに陰りはみえず、朝のワイドショーは「この夏一番の暑さになるでしょう」と騒ぎ立てていた。

 私は荷物を一通りスーツケースにまとめると、急いで待ち合わせ場所の池袋駅へと向かう。はたしていけふくろう前には、笹川先輩が、周りの雑踏も気にせず、涼しい顔で音楽に聞き入っていた。

「笹川先輩、おはようございます……すいません、こんな暑い中、お待たせしてしまって」

「あら、小川さん、お疲れ様。全然、私も今さっき来たばかりだし……それじゃ早速、行きましょうか。大内さんも一足先に会場に向かっているみたいね」

 彼女はヘッドフォンを外すと、柔和な笑みで改札へと促す。ふんわりとした知的な美貌からは、荒々しい音色で木谷門下の一番弟子という噂と全くマッチしない。微かに漂う香水の香りに、私は暑さも忘れ、彼女に暫し見惚れてしまった。

 

「それにしても今回の音楽祭って、どれくらいの規模のものなのでしょう。噂には聞いていますが……確か先輩は、去年も参加されているとか」

 冷房の効いた西武池袋線に揺られながら、私は高鳴る鼓動で、今回の祭の概要を尋ねる。

「そりゃ、もう凄い規模よ~。なにせ、若手の育成も兼ねて、全国からオーディションを勝ち取った音学生が集まってくるんだから。会場の秩父は、避暑地とは思えないくらいの暑さなんだけど、その熱気に負けないくらい、学生・講師・お客さん、皆、音楽に燃えているわ」

 先輩がこれからの喧騒を示唆するように、言葉に幾分力を籠める。

「それにしても、小川さん。一年次に選抜されるなんて、先生に相当見込まれているのね。確か、今月のロビーコンサートにも、最終選考まで残ったって聞いたし」

「いや、二年次に実際ホールで演奏した、笹川先輩の、足元にも及ばないです……でも、確かに何で私なんだろうって思いました。実力的には、香澄ちゃんや横山先輩の方が遥かに上ですし」

 目の前でスーツ姿の若い営業マンが心地よさそうに船を漕いでいる。私はそんな彼に半ば尊敬の眼差しを向けながら、一月半前の呼び出しを、まざまざと思い返した。


 中間試験を終えた翌日。突然呼び出しを喰らい、慌ててレッスン室に向かうと、そこには普段顔合わせすることのない、二人の先輩が待ち構えていた。

「さて、これで全員揃ったかね……君たちを呼び出したのは、他でもない。前に一度話した埼玉の音楽祭なんだけど、是非とも君たちには私の門下生として、一週間勉強してきてほしいんだ」

 丸眼鏡越しに、いつもの飄々とした笑みを称えながら、木谷先生が淡々と呟く。

「あの、本当に私たちが、ですか」

 ボブカットに、彫りの深い目元が印象的な二年大内先輩の一言に、先生はそうだよと少し声のトーンを落とし、

「笹川さんは去年に引き続いて。そして大内さんと小川さんは日頃の腕を見込んで、僕の門下生として参加するんだ……いいかい、若手の育成祭として、認知されているこの音楽祭に、毎年僕たちが参加出来ているのは、この祭創設者パウルと僕の長年の付き合いによるものなんだ。貴重な繋がりを大切に、また次へと絶やさぬよう、三人には良い糧として鍛錬してほしい」

 興奮と重圧の入り混じった空気が室内を覆う。君たちには期待しているんだから。先生が、ピアノの屋根にうず高く積まれた楽譜を手にすると、これを当日までに練習してきてねと、有無を言わさぬ勢いで三人に手渡す。

「これが祭で演奏する課題曲だ。後、今回は通常のレッスンに加えて、カルロ・ティタローザが、一日限りの指導をしてくれる予定だから。私の顔に泥を塗らないよう、しっかりと精進してほしい」

「カルロ・ティタローザ! 本当ですか!?」

 イタリアの今を時めく実力ピアニストが指導役の言葉に、一層室内がざわめきに包まれる。

 しかし先生は、ティタローザが特別講師に招かれるなんて。この祭も随分大規模になったもんだなぁ。とどこふく風とばかりに、しみじみ呟いたのち、

「それじゃ、そういう訳だから。今日からみっちり稽古に励んでください。それじゃまた、秩父でお会いしましょ~」

 彼のいつもの気の抜けた一言に、私たちは震える足取りで、その場を後にした。


「西武秩父駅、西武秩父駅―、終点でーす」

 その後、笹川先輩と音楽や雑多な話(激辛巡りに最近ハマっているとのこと!)に花を咲かせていると、電車はあっという間に、終点西武秩父駅へと辿り着いた。

「ぐぅ、暑い……」

 車外へと出た瞬間、射すような陽光に、忽ち気が滅入る。駅のプラットホームは、昼前にも拘らず、早くも陽炎が揺らめいている。

「小川さん、これくらいの暑さでへばってるようじゃ、音楽祭は乗り切れないわよ」

 日傘片手に、試すような視線を向ける先輩に逆らうように、私はいそいそと改札口へ向かう。  

 はたしてかねての予定通り、駅前には、白のプロボックスが待機していた。車内ではアイスコーヒー片手に、木谷先生がのんびりレゲエに聞き入っている。

「やぁ、よく来たね。二人とも! どうだい、君たち、お昼は食べたかい? 少し先に蕎麦屋があってね。そこの天ぷらがまた絶品なんだ」

「いえ、私たちこの暑さで、どうにも食欲が。って、先生、思いっきり秩父をまんき……」

 お互いのスーツケースを詰め、ため息交じりに後部座席を開けた途端、大量のチラシに目を奪われた。先生は特に後ろを振り返るでもなく、先程と全く変わらぬ口調で、

「今年も会場は大盛況だよぉ。夕方からのオープニングセレモニーに備えて、早くも現地は、地元の人や音楽愛好家でごったがえしている……はぁ、帰ったらまた、山積みのチケットと格闘だ」

「先生! 他の学生さんももう、結構、来てたりしているんですか? 後……ハインリヒ先生も。今年も初日からいらっしゃ――」

「うん、今日はセレモニーを聞くだけとはいえ、参加学生も七割方は、会場に到着しているかな。もちろん、ハインリヒ先生も既にお見えだ。笹川さんのピアノを、今回も楽しみにしているって」

 先生の幾分親しみの篭った口調に、先輩はその時初めて、緊張した顔で頬を赤らめた。

 私たちはそれから先生の事務作業への愚痴を延々と聞かされながら、目的地の「秩父の森 ペンション白小鳩」へとプロボックスをひた走らせた。

 道中、道端の至る所に音楽祭のチラシが貼られていた。私は、一地方都市で開催される祭の規模の大きさに、改めて武者震いをせずにはいられなかった。

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