3

「おばあちゃん!」

 私が指示された病室に駆け込むと、祖母は家族に見守られながら、ベッドの上で静かに横たわっていた。

「あけび、お帰り……おばあちゃん、急性の脳梗塞だって。今、病院の先生が診てくれた。正直、意識が戻るかどうかもわからないみたい」

 すっかり消沈した姉の言葉に、視界が真っ暗に覆われる。

「そんな……治らないなんてことないよね! だって、だっておばあちゃん。あれだけ私のコンサート、楽しみにしてたのに……そんなこと、そんなことって――」

 柄になく、取り乱してしまった私に、母がそっと優しく抱きしめてくれた。

「うん、大丈夫。おばあちゃん、すぐに良くなるから。だからあけび、今はとりあえず……落ち着いて」

 久々に嗅いだ母のふわりとした香りに、涙が止まらなかった。普段は父と畑しか顧みない母ではあったが、この時は、初めて頼もしくかつ私の錯乱する心を鎮めてくれた。

 夜になり、医師の急を要する事態ではないの言葉を信じて、私たちは一時帰宅した。

 沈んだ車内に、ラジオから流れる陽気なジャズがなんとも不釣り合いだった。たまらず父が電源を消すと、途端に田畑の蛙の繁殖音が延々と車内にこだました。


 翌日、不安の思いを抱えながらも、私たちは皆、再びの日常を開始した。だがこんな状態で私は、ピアノを弾けるはずも無かった。

 音楽の研鑽もままならず、学校が終わると、そのまま病院へと足を向ける日が数日続いた。

「……それでね、おばあちゃん。雪ちゃん、クラリネットを勉強するため、ドイツに留学するんだって。奈七子ちゃんも、声楽を猛特訓しているし、私だけだよ。高校に入学して、先に進めていないのは」

 黄金色に煌めく夕陽が、病室一面に差し込む。私が訪れる頃合いは、丁度夕食前の比較的落ち着いた時間で、患者職員皆、思い思いの時を過ごしている。

 今日は珍しく、親や姉の姿は無く、私一人だけだった。私が最近の日課である、その日の学校の様子を一通り語り終えると、祖母は相変わらず、まるで熟睡しているかのように、眠り続けていた。

「それじゃ私、そろそろ行くね。今日は帰ったら、久しぶりにピアノを弾いてみるよ」

 スランプに陥っているとはいえ、さすがに数日も鍵盤を弾かないと、手指がなまって話にならない。徐々に騒々しくなってきた院内を尻目に、丁度椅子から腰を上げかけた、その時だ。

「――っ!」

 祖母の点滴の打たれた右腕が、一瞬ぴくりと動いたような気がする。慌てて顔を近づけると、しわくちゃの瞼が、ぼんやりと、しかしはっきりと開きかけた。

「おばあちゃん!? ちょっと待ってて、私、先生呼んでくる!」

 慌てて駆けだそうとした私を遮るように、祖母の苦しく切なげな呻きが吸入器越しに響いた。

「苦しいの!? 大丈夫、もう少しの辛抱だから、私――」

「ぐうぅっ、わあっし……あえい、いあの!」

 それまで順調なリズムを刻んていた計器が、途端に不快な音で乱れ響く。普段の祖母からは想像もつかない、低く険しい声音に、私は咄嗟にその場から動くことが出来なかった。

「すいなことを……あんばりなさ――」

 その言葉を最後に、祖母は再び意識を覚醒することは無かった。駆けつけた医師が、目を血走らせ処置をする間、私は崩れまいと必死に突っ立っているだけだった。

 

 祖母の死ぬ間際の一言は、私の心に楔のように打ち込まれた。

 私の好きなこと、それはどんなに辛くともやっぱりピアノだ。全国コンクールに出て結果を出したい、将来は一流のピアニストになりたい。それは周囲の声とは関係無い。私自身の思い、意志だ。

 それからの高校三年間、私は良き親友と学生生活を謳歌しながらも、そのほとんどをピアノに捧げた。

 吹っ切れたようにレッスンに邁進したのが功を奏したのか、冬のコンサートは和田講師の推薦で無事トリを務めた。翌年夏、県のピアノコンクールに参加すると、見事金賞を取ることが出来た。

 しかし栄冠はそこまでであった。三年の春、クラス内で唯一、全日本コンペに出場する機会を得るも、結果は惨憺たるものであった。以降、全国の壁に何度も跳ね返されながらも、私は夢を捨てきれず、進路先として東京の音楽大学を選んだ。


    3


 クーラーを効かせた室内に、私たちの熱気が充満する。J.S.バッハ『ソナタ ホ長調 BWV1035』。荘厳な抒情曲の中でも、その終盤にあたる第四楽章の出だしで、繭は再び首を傾げ、

「う~ん……この辺りなんだけど、もう少しリズミカルに弾くこと出来る? 今のままだと、私一人、勝手に突っ走っちゃってる感じがして」

「いいけど、この楽章はテンポの躍動が特徴だよね。後半の軽快なリズムと対比する意味でも、ここは少し滑らかに奏でるべきだと思う」

「いや、アレグロ・アッサイ(きわめて快活に)だし、終始テンポよくいきたい。それじゃ、もう一遍、第四楽章の頭から」

 彼女が再びフルートを構え、爽やかな音を奏で始めた時だ。その出鼻をくじかれるように、練習室の扉が無造作に開け放たれ、

「夜遅くまで練習、お疲れ様。悪いけど閉室時間が過ぎているから、区切りがつき次第、速やかに退室するように」

 ゴマ塩頭の警備員さんが姿を現し、慌てて後ろの時計を見やった。時刻は午後九時一〇分。二時間の予約時間はとうに過ぎていた。


「ごめんね、あけび。毎回遅い時間まで付き合ってもらって。本当はもう少し早い時間から始めたいんだけど、丁度空いてる時間がバイトと被っちゃってさ」

 ホールからキャンパスへと出た途端、むわっとした湿った風が鼻についた。白のブラウスを羽織った繭は一瞬不快な顔を浮かべながら、すまなそうに頭を下げる。

「いいよ。正直私も日中は、自分の練習に当てたいし。むしろ夜の方が、集中して取り組めるから、結果オーライ」

 シングルマザーの家庭で育った彼女は、奨学金の足りない学費を捻出するため、いくつかのバイトを掛け持ちしている。

 それを理解している私は、殊更問題無い旨を強調した。

「本当に? でも、あけび……中間試験の結果次第で、埼玉の音楽祭に招待されるのよね。私自身もう他の伴奏者を探す余裕も無いけど、きつかったら、いつでも言っていいから」

 誰にも話したことのないオフレコの情報に、どっから仕入れたのよと間髪入れず尋ねる。すると彼女は意地の悪い笑みを浮かべ、実は木谷門下の三浦侑磨君、最近私の彼氏になったんだと、衝撃の事実を突き付けられた。

「彼、金銭的に苦労してるみたいで、先月私と同じバイト先に入って来たの。あけびと同じレッスン生って聞いたから、最初はその話をする程度だったんだけど。徐々に音楽の方向性で盛り上がっちゃって、ついに先週、彼の方から告白されちゃった!」

 場は閑静な住宅街から、華金の池袋の雑踏へと移り変わる。三浦君が繭と同じカフェで働いているとは聞かされていたが、まさかカップルにまで発展するなんて。

 最近繭のバイトの時間が増し、音楽にも色が出てきていたのはこのためか。

「おめでとう。でも意外、お互い音楽一辺倒で、恋人なんて作るってイメージじゃなかったから」

 彼女の幸せそうな笑みに、私はただただ祝福の意を伝えるだけだった。 

「ありがとう、あけび。私も入学してすぐ恋人が出来るなんて思わなかったわ……それじゃ、ここで! お疲れ様、来週もよろしくね!」

 メトロへと吸い込まれていく彼女を見送ると、私もそのまま西武池袋線へと向かった。繭から色恋話を聞かされたからか、普段全く気にすることのない往来のカップルが、この時はやけに目に付いた。


 江古田に着くと、時刻は二二時を指し示していた。この時間帯の商店街は、夕方のそれとは打って変わり、どこか閑散としてもの寂しい。

 街灯に照らされたシャッター街の前で、インド料理屋の店主が客と陽気に歌を歌い合っている。それを片目に、道中のコンビニで弁当を買ったところで、私は今朝方、洗顔料を切らしていたことを思い出した。

「しまった。近くのドラッグストア、もう閉まっちゃってるよ……」

 確か外れのディスカウントショップはまだやっていたはず。おぼろげな記憶を頼りに一つ先の路地を突き進むと、果たして目的の店はまだその日の営業を終えていなかった。

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