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「ん?」

 帰路、人気のない道を急ぐと、丁度更地になった空き地の手前、街灯の暗がりの下で買い物袋を携えた老婆が腰を屈めていた。

 目を凝らすと、辺りには食材が散乱している。瞬間私は慌てて駆け寄り、

「大丈夫ですか!」

 そのいくつかを拾い上げると、老婆は渡りに船とばかりに、

「あぁ、学生さん! 良かった、良かった。このまま誰もここを通らず、夜通し一歩も動けないかと覚悟していたぐらいだよ」

 小言を吐きながら、ほっとした顔で私を眺めた。

「こんな時間に買い物ですか……って、うわっ、左足めちゃくちゃ腫れ上がっているじゃないですか!?」

 回収した食材を買い物袋に戻し終えたところで、彼女の脆く細い左足が、真っ赤に変色していることに気づく。

「やっぱり夜中に外なんか出歩くもんじゃないねぇ。自転車にびっくりしてよろめいたところで、この様だ。学生さん、もし慈悲の心がもう少しおありなら、二つ先の我が家まで肩を貸してくれないかい?」

「全然、私なんかで良ければ!」

 そう言うや否や、彼女のひなびた左腕が肩に絡み、彼女のふんと短い鼻息と共にゆったり立ち上がった。

「歩けますか?」

「大丈夫。伊達に毎週、池袋のウインズには通っていないよ」

 左足はやや庇うように引きずってはいるものの、その歩調は通常の老婆よりしっかりしていた。

 去り際、彼女は前方に見える小さな祠をちらり伺った。隣の木札には汚れた文字でうっすら庚申塚と記されている。

 私の視線を感じたのか、彼女はなんでもないよと呟くと、いそいそその場をあとにした。私のワンピースを掴んでいた左手は、その時きゅっと小さく握り込まれた。


「学生さん、手間を取らせたね。ここだよ、私の終の棲家は」

 細い路地を二~三本抜けると、マンションの合間から古びた煙突が目に付いた。石鹸と塩素の混じった少し鼻にツンとくる香り。その漂う先には、大寺院を彷彿とさせる立派な宮造りの一軒家が佇んでいた。

「浜田湯……」

 随分年季の入った暖簾には、そうでかでかと記されていた。そっ、江古田でかれこれ七〇年になるかね。彼女の何の気ない一言と共に、その暖簾がさっとゆらめき、

「おっ、千恵さん、お帰りなさい……って、どうなされたんです、その足!?」

「博人さん! おばあちゃん、怪我して帰って来たよー。ほら、救急箱持って、早くこっち来て!」

 湯上りの〝整った〟表情の常連が、生き生きと姿を現した。だが足を負傷した彼女を見るや否や、みるみる血相を変え、再び店内へと戻って行く。

「おばあちゃん、だから言ったじゃん、買い物は僕が行くって。怪我酷いの? 大方道端でこけたりでもしたんでしょ」

 そんな彼らと入れ替わるように、入口から紺のパーカーを纏った青年が現れた。色白の彼は一瞬、ちらりと私に視線を向けたものの、すぐに何事もなかったように、老婆に嘆息した。

「いやさ、急に自転車が飛び出してくるから、何、ちょっと左足を挫いたぐらいだよ。それより、博ちゃん、この学生さん。動けないでいる私を見かねて、ここまで手助けしてくれたの」

 満足した笑みでそう述べた老婆は、組んでいる私の肩をポンポンと叩く。あの、たまたまその場を通りかかったもので。私が恐縮した態度で青年に返すと、彼は無表情で、どうもと頭を下げた。

「それじゃ、私はこの辺で……お兄さん、後の手当、よろしくお願いします」

「あっ、学生さん、ちょっとお待ち!」

 老婆を青年に引き渡し、踵を返しかけたところで、彼女から再び呼び止められる。お礼をしていなかったね、その言葉と共に彼女は奥に連なる浴場を指差し、

「良ければ、ひとっ風呂浴びて行きなよ。何今日は無料さ、タオル一式も今回は特別に、貸してあげる」


「うわっ、広い――」

 古びた引き戸を開けると、そこは開放感のある脱衣所が広がっていた。中央のベンチで、ほてった顔のおばあちゃんが、世間話に興じている。私はその場をさっと横切ると、辺りをちらちら伺いながら、奥の脱衣入れにリュックを降ろした。

「えっと、鍵をかけて……アメニティは備えているんだよね」

 なにせ銭湯は初めてだ。温泉すら最近はろくに行っていない。私は着替えを済ませた隣のご婦人の視線を気にしながらも、一糸纏わぬ姿になると、颯爽と浴場へと向かった。


 扉を開いた途端、湯煙に視界が覆われる。その視線の先には、壮大に描かれた富士のタイル画を背景に、裸の集団が皆、思い思いの時を過ごしていた。

 私は、目の前の空いていた〝カラン〟に腰を掛ける。まずは洗髪から。するとサウナから出てきた、見事なくびれを持った長身の女性が、ちょっとと声を荒げ、

「そこ、勝手に使わないでくれる? ほら、上に、私の浴槽セットがあるじゃない!」

「えっ」

 彼女の指差した先に視線を向けると、シャワー頭上のタイルに、防水のポーチが置かれていた。私は慌てて腰を上げ、

「すいません! えっと、洗い場って予め場所決められているのでしょうか? 私、銭湯初めてで、ルールとか、全く知らなくて」

「いや、基本どこでも使っていいんだけど……そう、あなた銭湯初めてなの」

 そう言うと彼女は噴き出した汗を冷水で流し、そのまま私の座っていた椅子に、何事もなく腰掛ける。

「ここには別に、ルールとか外のしがらみなんか一切必要ないよ。あるのは他人に迷惑をかけない、必要最低限の気配りだけ。それさえ守れば、後は思いのまま、どう過ごしたって構わない」

 そう言ったきり、彼女はこちらを顧みることなく、再びサウナ室へと去って行った。

「ルールやしがらみなんか必要のない、あるのは必要最低限の気配り……」

 このご時世、そんなユートピア的空間が存在するというのか。私は隣のスペースで一通り身体を洗い終えると、ゆっくりと人混みの少ない薬湯へ浸かった。

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