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「あけびは、天性のピアノの才能じゃ。この子はいつかきっと、日本一のピアニストになるじゃろうて」

 三年前に死んだ祖母の口癖だった。私がピアノに出会ったのは、そんな祖母が畑仕事に精を出していた、小学校に入学して間もない、麗らかな春の昼下がりのことである。

 当時は、自ら希望した姉の付き添い程度に始めたに過ぎなかった。しかし元来音に敏感だった私は、すぐに姉を追い抜き、小学校高学年にはドビュッシーやジョブリンの曲なんかに夢中になっていた。

「田福小の天才ピアノ少女とは君かい? お待ちしていたよ、さぁ、試しに何か一曲、私たちに弾いておくれ!」

 中学校入学直後の、吹奏楽部顧問の一言である。愉悦に満ち溢れた笑みの後ろに、憧れと嫉妬の入り混じった群れ。私は嬉しさよりも、いつの間にか他地区にまで噂が行き渡っていることに、薄気味悪い不気味さを覚え、以降この部活にはあまり参加出来なかった。

 それでも全校集会や入学・卒業式、文化祭等の学校行事では、教師から依頼され、ピアノ演奏のほとんどを自身が担った。そんな学校生活の傍ら、私は長年お世話になったピアノ教室の菰田先生の薦めで、中学二年の秋、隣市で開催されるピアノコンクールに出場することになった。

「あけびちゃんは、うちのどの子よりも、絶対ピアノの素質があるはずだから。お願い、先生の一生に一度のお願い、聞いてちょうだい!」

 小学生の頃から私を神童と褒め称えていた菰田先生は、折に触れコンクールの応募を私に薦めてきた。だがピアノは趣味の一環で、将来は家業の畑を継いで欲しいという両親の思惑と、何より子供の頃から自分に自信が持てなかった私は、〝ピアノは楽しく弾きたい〟を言い訳に、この年まで一度もコンクールに参加してこなかった。

「……わかりました。先生の静岡行きの花向けに、私一回挑戦してみます! 八年間最後のご指導、よろしくお願いします!」

 菰田先生はこの冬、家庭の都合で静岡へと旅立ってしまう。

 いつも私のペースで、レッスンを施してくれた先生との最後の思い出作り。私は初めて、半年間、学校以外のほとんどを課題曲に費やす程ピアノに打ち込み、本番ではなんと初参加にして史上初の中学生の部、銀賞を受賞した。

「いや、まさかとは思っていたが……ひょっとしてあけびには、本当に人並外れたピアノの素質があるのかもしれない」

「そうよ! この子はちゃんと努力すれば、ピアニストも夢じゃないわ!」

 淡いピンクのドレス衣装を纏って、菰田先生と共に、銀のトロフィーを得意げに掲げる私。

 この日から、全てが変わった。親は新しい稽古先として、有名ピアニストを何人も輩出している大手ピアノ教室を、片道一時間かけ向かわせ、家業は自由にさせる代わりに、この暫くはピアノに全力を尽くすよう半ば憑かれたように私に命じた。 

「菰田先生やおばあちゃんの言ってた通り、お前にはピアノの才能がある。それを伸ばすためにも、これからは趣味ではなく、真剣に全力を尽くして稽古に向き合え」

 親の期待には応えたかったし、何より銀賞を受賞したことで、更にその高み、コンクール優勝が私の心に芽生えた。

 学校とピアノの日々がまた始まった。過酷なレッスンの中、周りとの重圧、どうしても上手く音を奏でられない苛立ちと、正直あれ程大好きだったピアノが、見るのすら嫌になることが何度もあった。

 だがそんな時、支えになってくれたのが、周りの人々である。親や学校内外の友人、とりわけ祖母の存在は大きかった。

 幼い頃より、姉と比べ人一倍臆病だった私は、両親に呆れられながらも、祖母だけは常に味方してくれた。

 ピアノを弾き始めそれに夢中になって以降は、時間のある時は必ず、隣で心地良さそうに聞き入ってくれた。

「あけび、がんばりんしゃい。今が一番の辛抱の時期だよ。この辛い経験は、いつか必ず最高の結果となって返ってくるからね」

 不甲斐ない自分に腹が立ち、泣いて帰ってくる度、そう祖母は優しく、私の栗毛の髪をそっと撫でてくれた。

 その言葉を励みに、私は一年頑張り続けた。

 翌年のコンクール、例年以上の秀才が揃ったと噂されたものの、私は並み居る強豪を相手に、悲願の中学生の部、金賞を掴み取ることが出来た。

「お母さん、お父さん、私やったよ!」

 授賞式後、去年とは打って変わり、泣きながら家族の下へと駆ける私。しかし待ち受けていた両親と姉の顔には、喜びよりも困惑の表情がありありと浮かんでいた。

 私は掴んでいたトロフィーを危うく落としかけた。

 そんな家族を遠くへ追いやるかのように、先生や教室の仲間たち、地元の親友、更にはコンクールの協賛関係者と瞬く間に姿を現し、皆破顔一笑で、私はもみくちゃにされた。

 もはやピアノ以外の生活はありえなかった。賞賛の嵐にしどろもどろに応じていた私が、ふと先程の辺りに視線を向けると、そこにはなおも曖昧な笑みを浮かべる家族の横で唯一、誇らしげな顔をした祖母の姿が、私には一生忘れられなかった。


 中学を卒業すると、私は地元からでも通える、高校の音楽科に入学した。

「小川さん、なんでこの高校を選んだのさ。小川さんなら名古屋、いや県外の音楽高校に行ったって十分通用するでしょうに」

 週二回の特別レッスン。そう話す、和田講師の顔にはどこか嘆きが入っていた。

「あなた将来、何になりたいの? ピアニストになりたくて、このピアノ演奏コースにいるのでしょう。だったら、もう少し思いを音に込めなきゃ! 今のあなたには、それが微塵も感じられないの」

 高校入学後、コンクール金賞が高く評価され、私はクラスで数名しか受けられない特別レッスン生に選抜された。

 だがこの頃から私は、いわゆる〝燃え尽き症候群〟にかかっていた。気持ちを奮い立たせても、どうもメロディーとシンクロしないまま、夏のコンサートに向け、レッスンもままならない状態が続いていた。

「微塵も感じられないって……先生、私が手を抜いているように見えるって言うんですか。これまで以上に私、ピアノには、真剣に向き合っているはずです!」

 毎朝五時に起床して通学からの、一日音楽漬けで夜遅く帰宅してもピアノ。これだけ辛く苦しい毎日を乗り切っているのは、全ては周りの期待に応えるため。

「いや、別に小川さんが鍛錬を疎かにしているって訳じゃなくて。むしろ遠方から、欠かさずレッスンに精進してくれて、よく頑張っていると思うわ。ただ、何っていうか、どこか他人のためって気持ちが音に溢れているっていうか、そこにあなた自身の夢や希望がどうにも、見えてこないんだよね」

「私自身の夢……」

 そう呟くと、和田講師はそうよ、あなたの夢と、再び鍵盤に指を添え、

「この機会、少し、見つめ直してみたらいいんじゃない。とりあえず、夏のコンサートのトリは、森下さんに決めたから。あまり気負わず、その上でピアノに励みなさい」

 直近の目標であった、稲穂芸術劇場ホールコンサートのトリ不可を、無慈悲に告げられた。

「それじゃ、早いけど今日のレッスンはこれでお終い。あっ、次回までに、さっき提示した課題三曲、完璧にこなしてきてね」

 そう話し、モーツァルトの譜面が数冊、無造作に手渡される。その時の彼女の試すような表情が、この時の私にはひどく鼻についた。


「小川さん、お疲れ様!」

 レッスンが終わり、沈んだ表情で練習室から退くと、丁度同じ門下生の森下さんが、廊下で譜読みを行っていた。

「あっ……お疲れ様! 今日も早いね。また質問? 今回は何の曲を弾いているの?」

 慌てて動揺を押し隠し、いつも通りの口調で尋ねると、

「うん、今回はシューベルトの『ピアノソナタ第九番』。第四楽章の終盤にかけてのリズムが、どうしても引っかかるんだよね」

 そう話す彼女は、私の直前の態度に気づかなかったのか、ご自慢の絹のような黒髪をたなびかせ、私に楽譜を提示する。

「シューベルトね……」

 『ピアノソナタ第九番』。随所に転調が生じながらも、一貫して色彩に富んだこの曲は、音楽家の両親の下で育ち、見た目も艶やかな彼女にぴったりだと直感的に思った。

「そろそろ夏のコンサートも近づいてきたし、一層お稽古に励まなきゃねって……あっ、そういえば次回伝えるって言われてたコンサートのトリ、もしかして和田先生から指名された?」

 彼女の純朴な視線に、私は咄嗟に苦虫を嚙み潰した顔を浮かべてしまう。

「えっ……そっか」

 瞬間、彼女の口元に喜びの笑みが生じた。

 だが良家特有の、優しさに満ち溢れた彼女は、すぐに気まずい表情へと転じ、

「いや、私は当然嬉しいけど、ごめんね、小川さんも頑張っていたし……もちろんどっちかが選ばれれば、もう片方は当然、涙を飲むことになるんだけど」

 そう話す悲し気な口調は、お世辞じゃなく彼女の本心の気配りなんだろう。だからこそ、私は一層惨めな気持ちになった。私はひらひらと片手を振り、

「いいよ。正直、今の私は、森下さんと同じ地点に立てていないっていうか。さっき和田先生からも、もう一度ピアノに正面から向き合うよう言われたばかりだし……それじゃトリ、頑張って。ほら、立ち話してたらレッスン時間過ぎちゃうよ!」

 そう言うと、私は駆け出していた。なんで、私は夢や目標もありそれに邁進しているって言うのに、どうして!

 校舎を出た辺りで、制服のスカートポケットから携帯が無造作に鳴り響いた。正直あまり出たくない気分であったが、着信元に父の名が表示され、若干首を傾げる。

 親からの着信は滅多に無いことだ、一体何だろう。私は気怠げに通話ボタンを押すと、

「もしもし、お父さん? 今――」

「あけび!? おばあちゃんが倒れた! 今病院に向かっているから、お前もすぐにこっちに来なさい!」

 間髪入れない父の叫びに、周りの雑音が一気に途絶えた。

「おばあちゃん、えっ、どういう……」

 それからのことはあまり覚えていない。気づけば私は、幼い頃よく通っていた地元の総合病院前に、一人ぽつねんと佇んでいた。

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