第一章 都立音楽大学ピアノ科一年

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 叩きつける雨の音で目が覚めた。五月もまだ一週間あるというのに、この数日、空はバケツをひっくり返したかのような土砂降りだ。

「あっ……朝か……ヤバっ、予習している途中で寝落ちしたんだ」

 寝ぼけ眼で窓辺に視線を向ける。型板ガラスに無数の雨粒が滴り落ちる様は、水の駆けっこみたいで、幼い頃より好きな光景ではある。

 しかし覚醒したピントにより、視界ががらりと替わると、そこにはぼさぼさの髪に、はだけた寝間着姿の私が、虚ろな目でこちらを見つめていた。

「今日の範囲、まだ数ページ読んでいない……まぁいいや、残りは学校行って終わらせよう」

 上京して三か月、いまだ都内の生活には馴染めていない。昨夜の残りのパスタを温める間、私はあくびを噛み殺しながら、部屋の中央に鎮座したグランドピアノをゆったり眺めた。


「あけび、おはよう! こんな日に朝から座学なんて、しんどいよねぇ。まぁこの講義は割と面白いから、そこそこ、ためにはなっているんだけど」

 必修科目「西洋音楽史概論」の教室で、どうにか予習を終えると、フルート科の本田繭が姿を現した。

「ただ今日、私たちが指名される番だよね……ごめん、あけび、ノート写させて! 今週バイトで忙しくて、今回の予習すっかり忘れてた!」

 申し訳なさげに顔を掻く彼女に、私は肩をすくめながらノートを手渡した。

「ありがとう、恩に着ます!」

 始業まで数分を切る中、彼女は自分の担当箇所だけでもと必死にペンを走らせていた。幸いこの講師は一〇分遅れが常だ。私はそれをぼんやり眺めながら、ふと思い立ったように、

「そういえば、この前お願いされた、中間試験の伴奏だけど……私で良ければ引き受けるよ」

 ぼそり呟くと、彼女は手を止め、きょとんとした顔で私を刮目し、

「え……本当に、いいの?」

「うん。私もレッスンが忙しくて、中々時間は割いてあげられないけど。それでも引き受けたからには、全力でサポートする」

「やった、嬉しい! あけびのピアノなら、百人力だよ! やっとこれで心置きなく試験に臨める……いやぁ、やっぱ持つべきは同郷の友だね」

 残りの予習そっちのけで、彼女は心底嬉しそうに、その端正の取れた顔立ちをぐっと私に近づけた。

「でもこの借りはいつか返してもらうからね。まぁ繭のことだから、伴奏代は取らないけど」

 ラメの入った目を一層輝かせる彼女にそう釘を刺すと、彼女は一層歓喜の声を上げた。それを優しく見つめながら、私は隅に置いていた今日の課題曲の楽譜をゆったりと開いた。


「小川さん、なんか吹っ切れた? 今日のメンデルスゾーン、いつにも増して、音が冴え渡っているね」

 週に一度のレッスン。大きな丸眼鏡が特徴の木谷先生がにっこり微笑むと、私も、いつまでも引きずってはいられませんからと、釣られて精一杯の笑顔を返した。

「いやぁ、良かった。君みたいな〝地方出〟の子は、一度自信を失うとそのままずるずる行っちゃうから。いいかい、今回のロビーコンサートのメンバーには落ちてしまったけど、最終選考に残っただけでも実力は間違いないんだ。後もう少し鍛錬すれば、きっと来年こそあの晴れ舞台に」

 そう言うや否や、彼は実に我が事のように、悔しさを露にしていた。

「ありがとうございます。正直井の中の蛙じゃないですけど、今回は私の今の実力をまざまざと痛感しましたよ。全然練習が足りてないなって。改めて先生厳しいご指導の程、よろしくお願いします!」

 私が真っ直ぐな瞳を向けると、彼は、よしその意気だと、私に次の課題曲を弾くよう促した。

 私は再びピアノに向き合い音色を奏でる。ハイドンの『ピアノソナタ第五二番』。当時の人気女流ピアニストに捧げた氏の晩年の円熟曲。

 技術的に難度も高く、練習時間を長く設けてくれたとはいえ、この曲はモノにするのに随分苦労した。その一方、華やかさと繊細さを兼ね備えたメロディーは、弾く度に私の不安定な心を徐々に調和させてくれた。

 この曲のおかげで、ピアノに対するモチベーションを取り戻せたのかもしれない。

 第二楽章、鋭い視線が私を捉える。やはり学内一生徒に寄り添い、その個を引き出すに長けている講師の噂は伊達じゃない。正直入学当初は、憧れの金子先生のレッスンから落とされたのは相当ショックではあった。でも今はもうその未練は立ち消えている。

 木谷先生と共にコンクールを目指そう。私は消えかけていた熱意を再燃させると、第三楽章、その思いを鍵盤に大きくぶつけた。


 江古田の駅を降りると、丁度陽が落ちて間もなく、雨後の空は次第に闇夜に支配されつつあった。

 駅から歩いて程なく、学生や主婦の行き交う商店街を、私はすっかり疲れ切った表情でとぼとぼ歩く。

「やっぱ、半日座学からのレッスンはしんどい……繭みたいに、余裕のある時間割を組むべきだった」

 こんな日はとても自炊する気になどなれない。大きな水たまりに傘の先を持て余しながら、ふと彼女お薦めの惣菜店が、この先の通りの外れにあったことを思い出す。

「今日のおかずは、そこで調達するか」

 踵を返し、右手の細い路地を入って行く。確かコインランドリーを超えて少し先と言ったっけ。と丁度その時、懐かしい磯の香りが、私の鼻腔をくすぐった。

「さぁいらっしゃい! 今日のお夕飯に、今が旬のアジやアサリはいかが!」

 その出所は、目の前の随分年季の入った、鮮魚店であった。うまく代替わりが出来たのか、若い血色の良い兄ちゃんが、数組の高齢マダムに意気揚々と相手取っている。

 私はそっと素通りしながら、視線を店先の発泡スチロール箱へと向ける。そこには一〇〇グラム二〇〇円の手書き文字と共に、箱一杯色艶の良いアサリが埋めつくされていた。

 そうかもうアサリの時期か。今頃あそこは、多くの潮干狩り客で混み合っているのだろう。

 表の商店街に出ると、通りは一層買い物客で賑わいをみせていた。この中で故郷について尋ねた際、顔を背ける人間は一体どれくらいいるのだろう。

 目的の惣菜店はすぐに見つかり、私はメンチカツを携えゆったり家路へ向かった。

 住宅街へ歩を進めると、夜空にぽっかりと満月が浮かんでいた。そういえば月を眺めて故郷に思いを馳せたのは、誰の句だったっけ。

 高校の古典で胸を衝いた詩句が脳裏をよぎりかけた時、通りの一軒家から、陽気なピアノの音が聞こえた。モーツァルトの『トルコ行進曲』。そのたどたどしくも力強い響きは、私の地元にいた一八年間を思い起こさせるには十分であった。

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