脱いだ先の営み

菜の花 薫

序章

 横浜港から吹き付ける心地良い潮風に、私たちは揃ってその〝空気〟を堪能する。

 つい先ほどまでは、大道芸人のパフォーマンスで賑わいを見せていた広場も、今は数組の恋人たちが皆、思い思いの時を過ごしている。そんな私たちもご多分に漏れず、唯一空いていたベンチに歩を向ける。一面に敷かれた黄色の絨毯を、博人は器用に取り払うと、私に座るよう促してくれた。

「あけびとこうして、のんびり公園を歩ける日がまた来るなんてね。今でも、当たり前の日常を過ごしていいのか、正直躊躇ってしまう」

 ゆったり腰を据えた〝彼〟の右腕には、新しい虹色のブレスレットが瞬いている。〝彼女〟は先程まで訪れていたグランドインターコンチネンタルホテルの方角へ視線を向けると、この一年の辛苦を噛みしめるように目を細めた。

「大丈夫、もう全て終わったのよ。世界は新しい次元へ舵を切った。それでね博人……私やっぱり挑戦してみたいんだ、銭湯経営」

 視線は前を見据えながら、私はそっと〝彼〟に手を重ねた。傷一つすら許されないと言い聞かせていた手の甲も、今では小さなあかぎれですっかりボロボロだ。それでも、そんな両手も勲章とばかりに、私はもう片方の手を街灯に照らす。

「今日、三島湯の美香さんの話を聞いて思った。私が本当にやりたいこと。それはこの再生した世界に、変わらぬ温かい日常を届けることなんだって。そこではどんな人々も笑っていられる、そんな銭湯を作りたい」

 デッキの方から外国人男性の声が聞こえる。新しい世界には、ボーダーもジェンダーもフリーだ。

 沈黙が公園内を包む。やがて〝彼女〟は一息吐くと、ゆっくり私の肩を華奢な懐へと引き寄せ、

「いいんじゃない。それがあけびが考えだした答えなら。僕は全力でそれを応援する」

 色白の中性的な横顔で〝彼〟ははっきりと、私の夢を首肯してくれた。

「ありがとう……博人にそう言ってくれるなんて思わなかった――」

 涙が止まらなかった。思わず暗闇に嗚咽する私を、〝彼女〟はゆっくり労わってくれた。

 港の方から、船出を告げる汽笛の音が響いた。その高らかな音色は、私たちに新たな門出を告げる合図のようでもあった。

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