第3話 異世界帰りの煙草
治臣が翡翠色の妖精と遭遇して早三日。降って湧いたファンタジーに胸を躍らせたものの、あれ以降特に不思議なものを目撃することもなく、変わり映えのしない日常を送っていた。
あれが現実だったという証拠は手元から消えた煙草の箱くらいで、それすらあと三日も経てば自身で紛失しただけだと思い直しそうになる儚い証明だった。
晴れ晴れとした良い天気の休日だがどうにも外出する気が起きず、二度寝の後で昼食のカップラーメンをこしらえる。いつも通りの食べ慣れた味だが、つい最近経験した非日常との落差に余計侘しい思いが強くなる。
「おやおやぁ、随分しょんぼりさんですねえ。失恋でもしました?」
「ぐほっ」
突然声をかけられ、麺が喉につかえて咽せる。激しく咳き込む治臣の背中を、咽せた原因である翡翠色の妖精は「あれまー」と言いながら小さな手でさする。
「誤嚥には気をつけないと死んじゃいますよぉ、おじさん」
「そ、思うなら、げほっ、もっとそっと現れてくれないか……!?」
「何言ってるんですか! これは妖精のアイデンティティーです! そんなことより先日ご寄付して頂いた物品なのですが、被支援者の希望により返還に参りましたー」
ぽと、とカップラーメンの横に三日前妖精が持って消えた煙草が何処からともなく放られた。箱はやけに汚れており、手に取ると細かい土埃がぱらぱらテーブルの上に落ちる。いくらか中身が残っているようで、持ち上げた時にかたかたと音が鳴る。
(こんなもん、何でわざわざ返す必要が……?)
「ええまあ、ウチも本来消耗品はわざわざ返還したりしないんですけどね。うまいこと言いくるめられたというか」
「心の声に返事をするな。……ええと、そういえばこの間は詳しい話を聞きそびれていたが、この煙草の行き先ってつまり……」
「おじさん達にとっての異世界ですね。寄付を受け取った被支援者もそちらの人です。あれ? 言ってませんでしたっけ?」
翡翠色の妖精はカップラーメンの蓋の上に腰掛け、"異世界平和と摂理支援の会"について語り出す。
慈善団体"異世界平和と摂理支援の会"、通称"
活動内容は寄付あるいは貸与された物品を"必要としている相手"に支給すること。寄付は金銭に限らず、建築物からポケットティッシュまであらゆる物が対象になる。
貸与は消耗品以外の物品に適用出来るもので、受け取り相手がもう必要ないと判断した時、もしくは死亡した時に返品される。尚破損や劣化に関する苦情は受け付けない。
(地球に本物の神様が存在していたのか……各宗教家が戦争起こしそうな話題だな)
「ああハイ、説明の時点で殺されかかった妖精もいますよ。まあ姿を見せただけで殺しにかかってきた国もあるんですけど。ほらあの――」
「心の声に返事をするな、世間話のノリでブラックな話を始めようとするな」
「その点日本はいいですねえ。声をかけても大体喜ばれるので。えへへっ」
「……ヤバい話になる前に話題を変えるが。そもそも何だってそんな会を立ち上げたんだ? 何が目的なんだ?」
地球の歴史を振り返れば、幾度となく神の善意が必要とされる時代があったが、神の使徒が物理的な支援を施した話など、神話やお伽噺でしか聞いたことがない。
神などという超放任主義な存在が、異世界の神と協力してまで行動を起こしたのなら、単に善意だけで始めた活動ではないのだろう。そうせざるをえない何かがあったに違いない。
(もしかしたら――ダンジョンが何か関係あるのか?)
如何にも異世界めいた存在を思い出し、治臣は得体の知れない不安を覚えた。やや張り詰めた空気の中、妖精はにっこりと笑って胸を張った。
「知りません! 正確には覚えてません!」
「えぇぇ……」
「カピバラがどうとか説明された気はするんですけど、何か小難しくて。そういうのは私の担当じゃないのです」
「ああうん、そう……。じゃあ後で担当の子に聞いて教えてくれ……」
「無理言わないでください、私が覚えられるわけないじゃないですかー。で、そろそろ本題いいです? 被支援者さんがですねえ、ありがとうって伝えて欲しいって頼まれました。お陰で命が助かったとか」
命、という大きな単位に治臣は笑みを零した。あの煙草は余程のヘビースモーカーの所に渡ったらしい。会社の上司にも煙草をふかす一時を"命の洗濯"と言って憚らない人物がいた。異世界にもよく似た人種がいるのか、と思うと妙に愉快だった。
ところが翡翠色の精霊はぱたぱたと小さな手を振って「いやマジの命です」と否定した。
「マジの命? ……そんな状況あるか?」
「言いましたでしょ? 私達は"必要としている相手"に物品を支給するのです。異世界中で誰より一番必要としている"誰か"ですから、そんなこともありますよ」
煙草一箱と見知らぬ誰かの命がそうまで密接に繋がっていたとは思えなかったが、治臣を真っ直ぐに見つめる翡翠色の瞳に偽りや誇張の色はなかった。
妖精は「仕方がないですねえ」と大げさな身振りで肩を竦める。
「お茶とお菓子を出してください」
「何がどういうわけで仕方がないからお茶とお菓子を出すことになるんだ……」
「長話をするには必要でしょう。なかなかに非日常だと思いますよ――異世界の話は」
悪戯っぽく笑って"非日常"を強調する妖精に、一時ぽかんとする治臣だが、妖精が現れる直前、自身が経験した"非日常"と所帯じみた昼食の落差を嘆いていたことを遅れて思い出した。気恥ずかしさから「心を読むな」と苦々しげに呟き視線を逸らすと、翡翠色の妖精は鈴の音のような涼やかな声で笑い転げた。
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