第2話 喫煙所にて

「疲れてんのかな俺……」

「おっ、どうしたんですか佐上さん。いつにも増してくたびれた顔しちゃって」


 会社の喫煙所で煙草をふかしながらつい漏れた独り言を、同じく隣で煙草を吸っていた同僚の北迫きたさこが冗談交じりに笑う。

 北迫は二十代ですらりとした体躯の優男だ。陽気な気性で仕事も出来るため女性職員に人気があるが、既婚者である。相手は学生時代から交際していた女性らしい。

 治臣は煙草の煙を吐き出し、先程目撃したものをそのまま話した。


「さっき妖精が目の前に現れて、ナントカの会に寄付しろって言われてな」

「"妖精みたいに可愛い"なんて佐上さん結構大胆な比喩するんすね。可愛いからって無闇矢鱈に寄付しちゃ駄目ですよ、詐欺かマルチかもしれないでしょ」

「妖精みたい、じゃない。妖精だ。小さい女の子で……」

「未成年ですか? 通報しますね」

「待て待て」

「わはは。冗談ですよ。……でもちょっと休暇取ったらどうすか。実際佐上さん働き過ぎっすよ。妖精さんの幻覚は流石にマジでヤバいです。精密検査は受けて損するもんでもないですし、ね?」

「ガチのトーンで言われると冗談より傷つくんだが。……まあ何だ、それこそ冗談だよ冗談」


 疲れによる幻覚か、白昼夢か、誰かが悪戯で投影した映像だったのだろう。本物の妖精が胡散臭い名前の団体に所属して街中で寄付を募っているはずがない。第一、会話が可能なモンスターの話も、モンスターがダンジョンから出てきた話も聞いたことがない。

 北迫は「冗談ならまあいいんですけど」と灰皿に吸い殻を押しつけ、手にしていた煙草の箱を治臣に差し出した。胡乱げにそれを受け取ると、北迫は照れくさそうにはにかんだ。


「実は煙草止めようと思いまして。嫁さんから、妊娠した、ってさっきメールが」

「へえ、そうか。よかったな北迫パパ。おめでとう。今日は早く帰ってやれよ」

「ありがとうございます。そうします。……じゃ、俺先に仕事戻りますね」


 どことなく浮き足立った様子で喫煙所を後にする北迫の背中に輝かしい未来の光を見た気がして、治臣は目を細めた。希望に満ちあふれた若者の姿が、荒んだ今の心には眩しくて仕方がなかった。


「あのー、ちょっといいです?」

「……はっ?」


 すとん、と肩口に僅かな重さが載った。視界の端に鮮やかな翡翠色が入り込んだ瞬間、小さな眼差しがごく至近距離から治臣の顔を覗き込んだ。


「ナントカの会じゃないです、慈善団体"異世界平和と摂理支援の会"ですぅー。胡散臭くもないですぅー。幻覚でもありませんー。それにモンスター呼ばわりもちょっとカチンとしちゃいますね。素直に"可愛い妖精"で終わっておけばいいものを!」

「じ……実在して……嘘だろ……、……お前、つ、つけてきたのか? 寄付のために?」

「まさかぁ。普段は断られたら"ハイ次ー"ですよ。あんまり酷い言い様だから物申しにきたのです」

「言い様って……」


 混乱する頭で過去の己の発言を振り返るが、どう思い返してみても"モンスター呼ばわり"や"胡散臭い名前の団体"は実際に口に出してはいないはずだった。つまりこの妖精、心を読むらしい。

 治臣の推測を裏付けるように、翡翠色の妖精はすうっと視線を横に流し、治臣の爪先より小さな唇を尖らせた。


「聞こえちゃったもんは仕方がないですよ。それより謝罪です。謝罪を要求するのです。へいへーい、可愛い妖精ちゃんにゴメンナサイはー!?」

「……ゴメンナサイ」

「よくできました。じゃ、私はこれで」

「えぇぇ……」


 肩を離れてふわりと浮かぶと、翡翠色の妖精は溶けるように消えていった。それきり何も起こらず、まさか本気で謝らせるためだけに追ってきたのかと絶句する。呆然としている間に吸いかけの煙草の火は指先近くまで迫っていて、慌てて灰皿に押しつける。

 幻覚ではないと本人に念を押されても、それでも治臣は鮮明な夢を見た心地の中にいた。何故妖精がダンジョンの外にいるのか。ここまで会話が成立する異世界生物が存在していたのか。寄付とは一体。そして何より――


「……ナントカの会って、結局何だったんだ?」

「慈善団体"異世界平和と摂理支援の会"ですぅ!」

「うわっ」


 消えたと思っていた存在が再び前触れもなく声をあげ、治臣の全身がびくりと強張る。翡翠色の妖精はお構いなしに治臣の目の前を飛び回り、小さな小さな掌で額を叩く。あまりにも小さくて触れられた感触も僅かしか感じられなかった。


「全く、物覚えの悪いおじさんですね! 仕方がないからこんせつてーねーに説明してあげます。慈善団体"異世界平和と摂理支援の会"というのは――」

「待った! 凄く長い話の気配がする! 止めてくれこれから仕事なんだ! ……そうだ、き、寄付だったか? 千円で良いか?」


 この勢いでは仕事中まで湧いて出るのではないか気が気ではない――そんな不安が咄嗟に治臣の財布を開かせた。人間の押し売り相手なら間違いなく悪手で、小さな女子に金を握らせようとする絵面も最悪だ。

 しかし妖精は治臣の額を叩く手を止め、爛漫な笑顔でくるりと一回転した。


「ご寄付ありがとうございまーす! 勿論お金でも大丈夫です! でもお金以外の方が役に立ちますね。何せ異世界に渡る支援物資ですから。コッチのお金は単なる芸術品扱いです」

「ああ、そうか……ええと、なら……」

「極端な話、一軒家でもポケットティッシュでも、寄付する方の自由に出来る所有物であるならば何であろうとモノは問いません」

「はあ。……じゃあこれで」


 つい先程北迫に握らされた使いかけの煙草の箱を、妖精に向けて突き出す。気分を害すでもなく煙草の箱を受け取り――否、全身でしがみつくようにして抱き込んで、翡翠色の妖精は天真爛漫に笑った。


「暖かいご支援ありがとうございます! 今後とも慈善団体"異世界平和と摂理支援の会"をよろしくどうぞ。あっ、尚私達のことは他人に話そうとすると自動的に記憶が消去されますのでご了承ください」

「はっ?」

「ではではー」


 あっという間に姿を消した妖精。途端静かになった喫煙所を不審げに見回すが、あの鈴が転がすような涼やかな声が再び聞こえてくることはなかった。

 下手な発言をしてしまうとまた捕まってしまう気がして、治臣はそそくさと喫煙所を後にした。


 ――何処を切り取っても特別な出来事などなかった、と治臣は己の人生を振り返る。他人からしてみても、佐上 治臣という人間は別段特別な思いを持つような人間ではないだろう。

 だが今日は。いまだ白昼夢を見ていたような気になる、今日という日の出来事は。


 会社の廊下を歩く足が縺れそうになる。目の奥にまだあの翡翠色が残っているようで落ち着かない。午後からの仕事は山のようにあるというのに、この為体では残業も覚悟しなければないだろう。

 頭痛を耐えるその一方で、心の片隅には確かに――少年時代に置いてきたはずの、ファンタジーを夢見るワクワク感が今更舞い戻ってきていた。


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