第13話.今夜は鍋
魔猪の血が抜けきるのを待つ間、クナは近くに大きな木のうろを見つけた。
入り口が羊歯の茂みに隠れているという好条件。すぐ側に沢が流れているのと、サフロの木があるのもすばらしい。今晩はここを一夜の宿と定める。
辺りにはむわりと、濃い血のにおいが漂っている。噎せ返るほどの臭気はここ数年、感じていないものだったが、クナは吐くことも鼻や口を押さえることもしなかった。
血抜きが終わると、魔猪の巨体を魔力水で浄化していく。魔獣は悪臭が強く、人間にとって毒に近い物質を溜め込んでいるので、この作業抜きではまともに食べられない。ついでに毛や血も洗い流せるので、念入りに行う。
浄化が一段落したところで、食べられる内臓を手早く取り分けていく。
皮を剥ぎ、肉を削いでいく間にも、クナは水魔法を駆使して浄化の手を緩めない。地味だがこれを丁寧にやればやるほど、肉がより美味しくなると知っているからだ。
作業は順調だったが、ここで問題が起こった。
「あー……ナイフ、これじゃもう使えないや」
拾ったナイフが刃こぼれし、いよいよ限界を迎えたのだ。
首や牙は切り落とせそうもない。残念だが諦めることにした。
せめてと希少な頬肉と舌をそぎ落としておく。今日食べる分以外は布にくるくると包み、背負いカゴに入れた。この布はもちろん、例の男から拝借したマントの切れ端だ。
魔猪の頭に短く礼と祈りの呪を唱えると、クナはその場をあとにした。血のにおいは魔力水で流れたので、飢えた魔獣が寄ってくることはないだろう。
先ほど見つけた木のうろの近くまでやって来ると、昨日のように石を組み合わせて竈を作り上げる。
自然水を鍋に汲んできて、塩を入れてから火にかける。
視線を感じて振り向くと、地面に伏せった狼がクナを見つめている。
クナが持つ小瓶が気になっているようだ。見覚えがあるのかもしれない。
「この塩? 治療した男の持ち物から拝借してきたの」
もはや狼は呆れるような目もしない。どこか生温かい眼差しだ。
魔力を絞り、弱火に調節すると、薄切りの魔猪肉を投入する。固めの肉だから、時間をかけて煮込む必要がある。
蓋の代わりに、巨大なイスーンの葉っぱを鍋に被せた。小動物が雨除けに使う低木の植物だ。森にはいくらでも生えている。
「よく、森では魔猪を食べてたなぁ」
とろとろになるまで柔らかく煮るのが、クナの好みだ。刺身で食べようとしたこともあるが、とてもじゃないが呑み込めなかった。
魔猪を倒すには、今日のようにクナの花を利用したり、用意がないときは木の棒や投石で戦ったこともある。村を押しつぶし、建物を倒壊させる恐るべき魔猪だが、森で生きてきたクナにとっては戦いやすい魔獣のひとつだ。
といっても、食べた回数よりやや少ない数、死にかけてもいるが、結果的にクナは生き残っている。その事実だけで、じゅうぶんだと思っている。
肉を煮込む間は手持ち無沙汰なので、コグタケとトゲタケの石づきを取っていく。刃こぼれしたナイフでも、茸になら勝てる。
日が沈む頃になっても、まだ木の棒でつつく肉の感触はかっちりしている。クナはサフロの実をかじって、騒ぎ出しそうな腹の虫をどうにか宥めた。魔猪を相手にたくさん走ったのもあり、かなり空腹だ。
浮いてきた灰汁をお玉で取る。昨晩作った木彫りのものだ。
減った鍋の水を足す頃になると、魔猪の肉には柔らかみが出てきていた。
鍋の味つけには、塩と、新たに見つけたサフロの実をつぶし、砂糖の代用として使う。石づきを取った茸も投入した。
一気に香りが強くなり、クナのお腹がぐう、と大きく鳴った。口端から垂れそうになる涎を、袖で拭う。
お玉と一緒に作った深皿に、肉と茸とスープを入れる。
天の恵みに感謝を! うんぬんの文言も忘れ、クナはふぅふぅと何度か息を吹きかけると、肉を口に入れた。
「んん~……っ!」
熱々の肉の食感が弾ける。
思わず、足をじたばたとさせて悶えた。
舌の上で蕩ける、柔らかい肉の感触。よく煮込み、塩が染み込んだ肉は脂が乗っている。クナは夢中になってもりもりと肉を頬張った。
肉を堪能したあとは、猪肉の影で待ち受けていた茸類を口に放り込む。
流線型に沿ってくにゃりと曲がるコグタケの傘に歯を立てると、じゅわりと旨さの凝縮された水分が口の中に広がった。トゲタケの茎に生えた突起も良いアクセントになる。
ひとしきり味わったあと、スープを飲むと、温かさがじんわりと、冷えきった五臓六腑に染み込んでいった。
ぽかぽかと温まっていく身体。
こんな風に温かいと感じるのは、いつぶりのことだろう。体温の上がったクナは、真っ赤な顔をしてうっとりと呟いた。
「……はあぁ。天と地の恵みに、感謝を」
自然と、感謝の言葉が口をついて出る。
既に天にも昇る思いだが、実はこれが雌肉なら、もっと美味い。筋肉が少なく、煮込むと雄肉以上に柔らかくなるからだ。
すっかり上機嫌のクナは、もうひとつの深皿にスープをよそった。
地面に置くと、目蓋を閉じていた狼がぴくりと耳を動かす。意味を問うように、クナを見る。
「お前もお食べ」
サフロの実には興味を示さなかった狼だが、肉であれば食べるかもしれない。
果たして、クナの予感は当たった。起き上がった狼は、ふんふん、としばらく皿周辺のにおいを嗅いだあとに、猪肉に思いきりかぶりついたのだ。
しかし完全に肉食というわけでもないのか、茸もむしゃむしゃと食っている。腹が減っていたのか、なかなか良い食いっぷりだった。
「誰かと食事するのも、久しぶりだな」
ぽつりとクナは呟いた。ドルフとは数えるほどしか食卓を囲んだことはない。
スープのお代わりをよそう。いつもよりも、なんだかお腹が減っているように感じた。
食事の時間が終わる。
茂みで小用を済ませたクナは、何気なく頭上を見上げた。
クナは目が良い。星空に目を凝らすと、少しずつ色の違う紺色の道が幾筋も流れているように見える。
火の後始末をして、クナは光る実を手に、慎重に木のうろへと這入り込んだ。先住の獣が居ないのは、日が沈む前に確認してある。
カゴを置き、木の葉を敷き詰めたベッドに寝転がっても、まだスペースがあまる。そう思っていると、のそのそと銀狼がやって来た。食べ物をやって、クナに懐いたのだろうか。うろの中を物珍しげに見回している姿が、ぼんやり照らされている。
「あんたって、名前はあるの?」
当然ながら答えはない。そもそも名前なんて、人が人を判別するために使うものだから、獣にそんなものは存在しないのだろうが。
だが、この先も狼がついてくるつもりなら、名前がないと不便だ。呼びかけを言い淀む数秒が、森では命取りになる。
「……ねぇ。ロイって名前は、どう?」
理由を問うように、狼が上目遣いで見上げてくる。
面立ちは精悍だが、その仕草は犬のようで可愛らしい。クナがベッドから起き上がり頭を撫でてやると、狼は目を細めた。
てっきりごわごわしているのかと思いきや、その白銀の毛は細く柔らかくて、指通りが良かった。
「ロイは私のせいで死んだ犬の名前だよ」
シャリーンの策略に巻き込まれ、ロイは毒を飲んで死んだ。
嫌われ者のクナに懐くような犬だったから、なんの疑いもなく毒を飲んだのだろうか。あるいはシャリーンに無理やり飲まされたのかもしれない。
クナとシャリーンのせいで、ロイは死んだ。その事実はどう足掻いても変わらない。
だからこれは、クナの自己満足なのだろう。
「今日からあんたはロイ。いいね?」
その晩、クナは夢うつつにある声を聞いた。
――ウォオン、ウォオオン、と悲しげに森に響き渡る声。
ロイの遠吠えだ、と、なぜかすぐにクナには分かった。
あれは弔いだ。きっと墓も建てられなかっただろう、可哀想な子犬のために……。
「ありがとう」
ごめんね、と囁いて、クナは丸くなる。
その翌日、無事に森を抜けてウェスに辿り着くことを、丸くなるクナはまだ知らない。
――そしてクナを追い出した薬屋がどうなっているのかも、知る由もない。
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次はちょっと懐かしの薬屋の様子です。
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