第12話.対魔猪
のっそりとした足音と共に、木陰から現れたのは魔猪の頭だった。
魔獣独特のいやな臭気を放ちながら、ぶるる、と大きな鼻を鳴らしている。
赤い目は、クナを獲物と定めてか細められている。
大きな口から鋭い牙が覗く。クナは静かに魔猪を観察する。
(毛並みと牙の大きさからして、若い雄だな。繁殖期だから殺気立ってる)
魔獣化していない猪ならば、人が動かなければ姿を消すのだが、どちらにせよ魔獣相手ではそうはいかない。
傍らの狼が庇うように前に出ようとしたが、クナは小声で呟いた。
「大丈夫。私がなんとかするから」
ぴたりと足を止めた狼がクナを見上げてくる。そんなのは無理だと言いたげに。
確かに魔猪の図体は、クナの三倍ほどはある。敵う道理はない。強い魔法も使えない小娘では、牙で刺されて終わりだ。
だがクナには知識がある。『死の森』で生き抜いてきた過去がある。相手が群れなら逃げの一手だが、たった一頭の魔獣にやられるつもりはさらさらない。
クナは重いカゴを背負ったまま、魔猪から目を逸らさず一歩後ろに下がる。
そうしながら、麻の服の懐にそっと手を忍ばせる。その動きに魔猪が浮き足立つ。蹄で地面を軽く蹴っている。
しかしクナは怯まずに、じりじりと後ろに下がり続ける。
歩いてきた道の地形はだいたい把握している。このあたりは土がよく乾いている。コグタケとトゲタケの好む気候だ。
狼もクナに付き合うように、身体を地面に伏せつつゆっくりと後ろ足を下げている。やはり賢い獣だ。
クナの言動を理解している。やはりこれは聖獣なのかもしれない。道先の木々を力任せに叩きながら、クナはそんな風に思う。
『ウウ……グ、ウ……』
いよいよ魔猪は我慢が利かなくなってきたようだ。
知能の低い魔猪は焦らされるのに苛立っている。その目が、かっと大きく見開かれていた。
同時にクナは走り出している。
『グウウウウウッ!!』
咆哮のような鳴き声と共に、魔猪が突進してくる。
目の前の木に向かって逃げたクナは、とっさに身を翻す。ずどん! と魔猪が木にぶつかった。
ますます怒った魔猪は、何度かふらついてから再びクナに狙いを定める。
クナはまた別方向の木の下に逃げていた。そこに魔猪が向かってくる。また、ずどん! と振動があり、ばらばらと落ちた木の葉や小枝が宙を舞う。
追いかけっこを五回ほど繰り返したときだ。
クナは立ち止まった。足元を遅れずついてきていた狼が、何事かというように見上げてくるが。
そこでクナはぱんぱん、と手を叩いてみせる。――すっかり橙色に染まった手を。
「はい、できあがりっと」
『ウウウウウッ!!』
地響きのようなうなり声を上げる魔猪。
びりびりと大地が、木々が震えるが、クナはほくそ笑むだけだ。
……その二秒後に、魔猪の巨体がずしんと横に倒れた。
――クナの花はしぶとい花。そう評したのはマデリだ。
『死の森』に追放された夜、クナが生き残ったのはこの橙色の花の特性をよく知っていたからだ。
あの夜、花が咲き誇る中にクナは捨てられていた。
牙を持つ魔獣の群れはそんなクナを襲おうとした。だからクナは、
もしも焦り、恐怖に陥り、一歩でも花の中から足を出していたなら――今頃クナは肉片も残らず、魔獣たちの胃の中に収まっていただろう。
根気比べの結果、あの日のクナは魔獣に粘り勝ったというわけだ。
そして今日は完勝である。
「クナには猛毒があるんだよ」
クナの花粉を吸い込むと、まずは手足がしびれて、いずれ全身が動かなくなる。
魔猪は猪突猛進な魔獣だ。一度、頭に血が上ると直線上にしか走れない。クナはその特性を利用して、木の表皮に花粉をこすりつけ、魔猪を何度もその下に誘導した。
大量の花粉を吸い込んだ魔猪にはまだ意識があるが、起き上がることはできず、わずかに足の先を動かすだけだ。
小さな花のどこに毒があるのかというと、橙色の花弁ではなく、おしべの先端についたやくの中……つまり花粉そのものが毒となるのだ。
だからクナは、摘んできたクナの花を懐にいくつか忍ばせているのだった。
(どういう仕組みか分からないけど、だいたいの魔獣に効果があるんだよね)
ちなみに対魔獣の武器としてクナが重宝がられていない理由は単純だ。クナの花に毒があることは、一般的には知られていないのだ。ふつうの花とは受精方法が異なるのか、拳を打ちつけてようやく破けるくらいに、やくが硬い。
クナの花は山奥に咲くが、摘み取れば一日と持たずに枯れる。美しい花でもないからか、家に持ち帰る人も少ないようだ。
――知る人ぞ知る、猛毒の花。
間違っても少女につける名前ではないが、クナは自分の名前を気に入っている。
「あんたには効かないみたいだね。やっぱり魔獣じゃないのかな?」
『…………』
いけしゃあしゃあと言ってのけるクナに、狼は眉根を寄せている。ちょっぴりご機嫌斜めのようだ。
ちなみに人であるクナにも痺れ毒は有効だ。クナが平然としているのは、幼い頃に何度も花粉を喰らった経験があり、耐性があるからだ。
……これは余談だが、マデリに拾われたときも、クナは痺れて動けなくなっていたのである。
『ウ……グウ、ウ……』
唸る魔獣に油断せず、クナはナイフ片手に近づいていく。
そして首の付け根の下を、勢いよくナイフを振り下ろして刺した。
『グウッ』
魔猪はしばらく痙攣していたが、やがてその身体の震えもなくなっていた。
太い脈を刺したのは、とどめを刺すのと同時、下処理として迅速な血抜きを行うためだ。
そもそもクナの目には、最初から恐ろしい魔獣が食用肉にしか見えていない。狼の助太刀を止めたのは、噛み跡や引っ掻き傷ができた部分は食べられなくなるからだ。クナの花粉で痺れた魔獣の味が変わらないことは、経験からよく知っている。
数週間ぶりの肉を前にして、にたりとクナは笑う。
「今夜はきのこ鍋じゃなくて、ぼたん鍋だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます