第14話.クナを追い出した薬屋1



「ドルフ、おはよう!」


 ――朝を告げるのは、よく親しんだ女の声だった。


「どうしたの、まだ寝てるの? さすがに気が抜けすぎなんじゃない?」


 次いで、カーテンと窓を開ける音。閉じた目蓋の裏側にまで、まぶしい朝日が射し込んでくる。

 ベッドに横になっていたドルフは、煩わしさからわずかに目を開けた。中途半端に開いた視界の真ん中に、クリーム色の長い髪が滑り込んでくる。


 反射的にドルフは手を伸ばした。

 肉感的にくびれた腰を抱こうとして、するりと逃げられる。


「だーめよ、ドルフ。今日分のポーションは作ったの?」

「……クナみたいなこと言うなよ」


 実際は、クナがそんな風にドルフを急かしたことはないが、敢えてドルフはクナの名前を出した。

 クナが居なくなったのをきっかけにシャリーンは薬屋に入り浸り、ドルフの妻のように振る舞うようになっている。


「あら、ごめんなさい。気に障ったかしら?」


 くすりとシャリーンが笑う。容姿だけなら女神のように美しい女だ。

 彼女を押し倒し、服を脱がせて大きな乳房を揉みしだきたい。そう感じるのはシャリーンが愛おしいからではない。何もかも忘れて、馬鹿みたいに性欲に溺れたいからだ。ついでに喘ぐのに夢中になれば、余計な発言もしなくなるだろう。


 それほどまでにドルフは追い詰められている。だが、その事実を周囲にはひた隠しにしている。


「ほうら、起きて。昨日もお店を開けてないんだから」

「……おう」


 身体中にまとわりつく倦怠感を払って、どうにかドルフは起き上がる。

 布で適当に汗ばんだ顔を拭う。階段を降り、裏の畑でいくつか適当に薬草をむしる。やけに葉も茎もしなびている。暑さのせいだろうか。

 その間も、シャリーンは後ろで暑いと文句を言っている。


 ドルフの胸中など知ったことかというように、晴れ晴れしい空。

 燦々と降り注ぐ日光を浴びながら、ドルフは溜め息のような声で頼んだ。


「あー、畑に水を撒いておいてくれるか」


 返事はなかった。振り返ると、シャリーンが眉根を寄せていた。

 村長の孫娘である彼女は、貴族ほどではないが優雅で贅沢な暮らしを送ってきた。庭師の仕事を言いつけられて腹が立っているのだ。


 くそ、と舌打ちしたい気持ちを抑えて、ドルフは困った顔を作って両手を合わせた。


「頼むよ。シャリーンが手伝ってくれると本当に助かるんだ。君しか頼れる人が居ないから」

「……仕方ないわね」


 下手に出れば、シャリーンは渋々とだが頷いた。


「でも水瓶の水、もうほとんど残ってないわよ」


 クナが最後に汲んできた水は澱んでいる。その中身も尽きそうだ。

 力仕事のすべてをクナに押しつけてきたドルフは、どうしたものかと思う。井戸で水を汲むのはそれなりに重労働だし、隣家に頭を下げにいくのも面倒だ。


「その分を全部使ってくれ」


 飲み水は別に確保している。

 今は、やる気が出ない。


 言い残したドルフは調合室へと向かう。これからのことを思うと気力は萎えるばかりだったが、やるしかなかった。



 ――ドルフの血のつながらない妹であるクナ。

 彼女がアコ村を追放されたのは、二日前のことだ。



 追放先は『死の森』だ。

 おそらくもう生きてはいまい。とっくに獣の餌にされて死んだはずだ。

 ドルフの胸に、クナの死に対する悲しみはない。ただ、後悔だけが渦巻いている。


「どうしてクナを追放なんてしたんだ」


 薬草をすりつぶしながら、ぶつぶつとドルフは呟く。

 その拍子に吐き出した唾が乳鉢に入る。おっとと言いながら袖で口元を拭い、ドルフは作業を続けた。


 ――シャリーンを責めるのはお門違いだと、心の底では理解してもいる。

 ドルフはシャリーンの前で何度もクナへの愚痴を吐いた。役立たずで出来損ないの薬師。外れポーションしか作れない無能。女としても無価値で、嫁のもらい手もない不美人だと散々に罵ってきた。


 だからシャリーンは、ドルフのために策を練ったのだ。

 数人の村人に協力を仰ぎ、飼っていた子犬を犠牲に、村長たちまで騙して芝居を打った。事前の相談はなかった。あったなら、ドルフはどんな手を使っても阻止していただろう。


 もちろんその理由は、クナへの愛や同情からではない。


「お前らが大好きなポーションは、他でもないクナが作ってたっていうのに」


 吐き捨てる声は、間違っても外のシャリーンに聞こえることがないよう、音量が絞られていた。




 ドルフはもともと、薬師になんてなりたくなかった。


 ウェスに住んでいたが、両親が落石事故で死んだことをきっかけに、母方の祖母であるマデリに引き取られた。

 薬師であるマデリはアコ村にドルフを連れてきて、後継者として育てようとしたが、幼いドルフはすぐに挫折した。

 薬草の名前、部位別の効能、調合方法、保管方法……薬師の仕事は頭が痛くなるようなことばかりだった。そんなことより棒を片手に振り回し、年頃が近い子どもと遊んでいるほうが、ドルフはよっぽど楽しかった。


 マデリは、学ぶ意欲のないドルフに、無理な教育を施そうとはしなかった。

 その代わりというように連れてきたのが、ひとりの娘だ。


 痩せ細った、みすぼらしい子どもだった。

 冬の枝のような手足。絡まった黒い髪に、目つきの悪い橙色の瞳。

 初対面のドルフにまともに挨拶もしない。親に習っていないのか、使う言葉も単語が中心だ。人というより獣に近い、と一目見て思った。


 ――『アタシはこの子を後継者として育てるよ』


 マデリの言葉を、ドルフは受け入れなかった。

 薬師見習いとしてのプライドを刺激されたわけではない。自分が得られなかった後継者の地位を、急に現れた獣のような娘に奪われるのが許せなかっただけだ。


 だが娘――クナは、ドルフの小さなプライドを片っ端から砕いていった。


 千では下らない薬草の名前に、群生場所、見た目やにおい、感触といった特徴も含め、余すことなく知識として定着させていく。

 暇さえあればマデリが作った図鑑を読み耽り、吟味しては、内容に不足や誤りがあることすら指摘してのける。


 それだけではない。特に恐ろしかったのはクナの魔力だ。

 といっても、魔法の実力が優れているというわけではない。今もクナは、難しい魔法だって使えない。ドルフがひたすら恐れたのは、クナの魔力量である。


 魔力切れは、子どもでも大人でも一度は味わう現象だ。

 胃の中身がすべて逆流するような感覚。頭は割れるように痛み、目まいがして、生理的な涙を流しながら、まともに立っていることもできなくなる。


 そうして、誰もが知る。強制的に限界を突きつけられて、自分はこの程度なのだと悟るのだ。


 だが、クナは違った。魔力切れするまで魔法を行使しては、泡を噴いて失神する。

 しかし次の日はけろっとして、また魔法を練習する。それを毎日、当然のように繰り返す。

 とても幼い子どもが耐えられる苦痛ではないそれを、クナは何度も乗り越えてみせる。


 学習能力がない犬のようだとドルフは笑っていたが、日に日にクナの作る薬の量が増えているのに気がつき、笑みは凍りついた。

 クナの魔力量は尋常でなく増していた。魔力切れの苦しみを何度も繰り返すと、その分、魔力の量自体が少しずつ向上していくらしいと、クナを見ていてドルフは知った。そう分かっても、とてもじゃないがドルフは挑戦する気にはなれなかったが。


 そんなクナを、マデリは厳しく指導しながら、大きな期待を抱いていた。

 しかしマデリは二年後に死んだ。病ではなく、老衰だ。クナは薬草を摘みに行っていて留守だった。ドルフだけが、マデリの遺言を聞いた。



 ――『クナが後継者だ。ドルフ、アンタは傍であの子を支えておやり』



 皺だらけの老婆は幸せそうに微笑んで息を引き取った。

 マデリの遺体を泣きながら抱きしめるクナに、ドルフは言った。



 ――『ばあさんは俺を後継者に選んだ。お前は俺の補佐として働くんだ』



 クナは異論がないようで、こくりと素直に頷いた。

 そのときは身の程を弁えていると思ったものだが、今になって考えると、そうではなかった。


 まともに修練を積んでいない兄弟子が店を継ぐと言ったのだ。クナの立場ならば、異を唱えて当然。遺言を偽っているのではないかと、疑ってもおかしくない。


 だが、クナは知らなかったのだ。

 ドルフに薬草の知識がないことも、ポーションを作る実力がないことも、帳簿がつけられないことも、クナはちっとも知らなかった。今も、知らないままだろう。



 なぜならば。

 ――あの好奇心に満ちた橙色の目の中に、ドルフは一度も入ったことがなかったのだから。



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