第7話.死の森

 


 沢に流れる透き通った水を、クナは両手で掬って口に運ぶ。

 舌の上を滑る冷たさに、少しだけ身体が驚いたが、喉の奥へと流し込めばそれは清涼な恵みへと変わった。


「……おいしい」


 何度も掬い上げては、うっとりと飲み干す。味気ない魔力水とはまったく違う味わい。

 砂漠では一滴の水を巡って争いが起きるというが、その理由も分かろうというものだ。


 じゅうぶんに喉を湿らせたクナは、ぼろぼろの衣服とまとめて靴も脱いでしまう。

 足裏が細かい砂を踏む。ひんやりとした水に全身を浸からせていくと。


「あー、いたたた」


 顔を顰めるが、傷口自体は残っていない。引きつれたような痛みの余韻が、背中中心に残っているだけだ。

 昨夜、クナはそこらに生えた薬草を食べ続けた。その数は百では下らないだろう。その甲斐あって、鞭打ちによって刻まれた傷のほとんどは回復していた。

 熱冷ましに使う薬草も見つけ、額に乗っけておいたので、熱もだいぶん下がってきている。


 全身にこびりついた血を洗い流し、ついでに汗や垢、埃にまみれた顔や髪の毛も洗っていくと、気分がすっきりとしてきた。


 沢から上がったクナは、灌木に干して乾かしておいた衣服を着ていく。

 麻の生地で作られた服は上下がつながっている。男性用のものなのかクナにはぶかぶかのサイズだが、ぼろ切れのような服をまとっているよりはマシだ。


 長く垂れる裾をまくって、靴の中に入れる。

 肌が出ていると虫に刺されるおそれがあるので、不用意に切り裂くよりはこのほうが安心だ。


 一緒に拾った腰紐に、皮革の水筒をくくりつける。沢で汲んだばかりの水がたぷたぷと中で揺れた。


 ――アコ村では立ち入りが厳しく制限されている『死の森』だが、迷い込んで死ぬ旅人や、腕試しに来る冒険者はあとを絶たない。


 衣服や紐、水筒も、森の中で拾ったものだ。傍に持ち主の姿はなかった。

 手を合わせ、クナはありがたく拝借することにした。非情かもしれないが、これも生き延びるための判断だ。ここで躊躇うようでは、彼らのように野垂れ死ぬだけである。


「よし、行こう」


 気合いを入れるように口にして、クナは歩き出す。


「目指すは向こうの町……ウェス」


 アコ村と『死の森』を挟んだ隣町であるウェス。

 アコ村を追放されたクナの行く先はウェス以外に考えられない。


(ばあちゃんは、私はそっから来たのかもしれないって言ってたけど)


 クナが覚えているのは、マデリと出会う数か月前からの記憶だけだ。

 どうしてひとりで森に居たのかもよく分からない。気がついた頃には『死の森』で生きていたからだ。

 おそらくクナの両親は旅人か冒険者で、森で死んでしまったのだろう。その程度にしか考えたことはない。顔も覚えていない両親を恋しがる時間はなかったからだ。


 ただ飯食らいは家に置けないからと、マデリはクナに薬草や植物の知識を片っ端から叩き込んでいった。

 森で肌で体感したことと、マデリに教わったことは、全てクナの血肉となった。さながら、乾いた白い紙がインクを吸収するように、知識はクナの武器となったのだ。


 春を迎えた森は、爽やかな緑色に色づいている。

 しかし中心に向かうにつれ、森の色は濃く、暗いものになっていく。高い木々がたっぷりとした枝葉を茂らせた森には、ほとんど日の光が射さないためだ。そのおかげで朝も昼も動きやすいのは利点ではあるが。


「私が暮らしてた頃とは、まったく景色も違うな」


 クナは獣の足跡がないか確認しながら、道とも呼べない道を進む。

 そうしつつ、手にしたナイフで木に目印をつけていく。このナイフは、衣服と一緒に落ちていたものだ。刃先が欠けているが、じゅうぶん使える。森に住む魔獣は四足歩行のものばかりなので、手に持つ形の武器を奪うことはない。


 森では落石があれば地盤沈下もある。

 それどころか、『死の森』は一定の時間が経つとゆるりと地形を変えるという説も提唱されているという。森の面積自体もどんどん膨らんでいると、村長とマデリが話しているのを聞いたこともある。


 正しいルートなど存在しない以上は、通ってきた道を把握し、選択肢を潰していくのが近道となる。


「あっ、サフロの実!」


 珍しく、クナは弾んだ声を上げた。

 見上げるほど高い一本の大木の上に、大きな赤い実がいくつも生っている。

 水分をたっぷりと含み、砂糖のように甘く、栄養が豊富な実である。森で生きていた頃のクナの大好物だ。実の中の水分は、風邪薬の調合材料としても使われる。


 森に入って初めての、食事らしい食事だ。

 手頃な石を拾い上げたクナは、それを真上に向かって投げた。


 見事、石は狙い澄ました枝にがつんと当たり、落ちてきた丸々とした実をクナは両腕に受け止めた。

 皮に茶色い斑点が出ているものを狙ったのだ。この斑点があると、甘みがあってさらに濃厚である。


 顔の大きさほどもある実に、小さな口をめいっぱい開けて、クナはかぶりつく。

 むわりと漂うほどの甘みが口内に溢れ、クナはほんのりと口角を緩めた。


「んー、おいしい!」


 甘いものなど、ここ数年はほとんど口に入れていない。

 むしろドルフと暮らしていた頃より、森での食事はよっぽど贅沢だ。


 ――ここは、強力な魔獣が数え切れないほど住む森。


 一歩踏み込めば二度と出られない。悪戯をする子どもを、アコ村に住む大人たちは「悪いことをしたら、森に置き去りにするぞ」と脅しつける。

 だがそれは裏返せば、人が踏み入ったりしなければ、ほとんど害はないということだ。


(死の森、なんて大仰に呼ばれてはいるけど)


 魔獣だって馬鹿ではない。


 群れを成す人間に手を出せば、討伐隊や騎士団がやって来て駆逐されると理解している。

 魔獣たちにとって人は特別美味というわけでもないようで、わざわざ麓まで下りてくることはほとんどない。森には豊富な食料と水源があり、人を襲う必要がないのだ。


 ろくな柵もないアコ村で魔獣の被害がほとんど出ないのは、住民たちが森を恐れて手出ししていないからだ。


「ばあちゃんは、貴重な薬草が採れるからって入り浸ってたけどね」


 それはこの森で拾われたクナと、マデリだけの秘密である。



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