第4話 イカオ温泉

 イカオ温泉は標高700メートルほどの位置にある、斜面を切り開いて造られた長い歴史のある温泉街だ。

 山核発生時からこれまで、下界にある渋沢しぶさわ市とハルナレイクを結ぶ県道33号線沿いのエリアは一度も魔獣による氾濫が起きていない。

 それに対する様々な考察はあったが、その事実だけがこの温泉街の価値を高め続けていた。

 標高100メートル以上の山岳地を失った人類にとって、唯一といっていい山岳温泉地にあやかろうとする人は少なくなかった。

 利権を得る側も、価値を享受する側も。

 当然のことながら、その利権を価値を広げようとする意志が働いたが、斜面を削り範囲を広げようとする行為は失敗に終わる。

 山核発生時に存在していた温泉街の施設から数十メートル離れただけで、そこは山核の影響範囲となり、魔樹や魔獣が溢れていた。


 それでも、魔獣がその境界線から侵攻する、氾濫と呼ばれる事象が発生しない事実は大きかった。

 領分さえ守れば、恩恵を得られる。

 人々はしたたかで、割り切ることでたくましかった。


「平日の午前中なのに、相変わらず混んでるなぁ」


 県道沿い、山核に関わる三隊用に整備された専用駐車場に車を停め、運転席を降りたかいは、傾斜地にある温泉街を縦断する石段を眺めながら感嘆の言葉をあげる。


「宿泊チケットはプラチナで、日帰りで遊びにくるのも抽選だもんね」


 百合香ゆりかも助手席を降りかいの隣に移動しながら苦笑する。

 天然温泉は平地にもたくさん作られたが、昔ながらの、ほぼ唯一となった山岳温泉地に訪れる行為は、今ではお金がかかり、運の要素もある高難度のレジャーになった。

 

「いつ氾濫が起きるか分からないのに……」


 そんなかいの呟きに、彼がそういった懸念をきちんと考えていることに百合香ゆりかは感心した。


「そうだね、これまで大丈夫だからって今後もずっと大丈夫だとは言えないもんね」

「でも、みんな楽しそうだから、やっぱり感謝なのかもな」


 宿舎から出発するとき語った感想を語られ、百合香ゆりかは皮肉を込められたのかと思ったが、楽しそうな家族連れを眺めるかいの瞳は優しく揺れていた。


「そうだね。だから私は守りたいって思うよ」


 百合香ゆりかは彼の心情を素直に受け止め、自分の意志を重ねておく。


「あれ? おススメされたから選んだんじゃなかったっけ?」

「いくら私でも、そんな理由だけでこの仕事は選ばないって」


 かいのからかいに百合香ゆりかも笑って返す。

 だんだんお互いのテンポや考え方が理解できて、軽口も言い合えるだけの距離感がつかめていた。


「で、どこに行くんだ?」

「ここが目的地みたい」


 百合香ゆりかは隊長から渡された地図をかいに示す。

 石段を登りきった場所にある、神社の手前で左折し500メートル“赤い屋根の三階建て”という目的地が手書きで書かれていた。

 二人は制服の上から私服の上着を羽織り、観光客に紛れつつ石段を上る。

 セイバーであることをひけらかしていいことはないぞ。という隊長のアドバイスには素直に従っておく。

 山核に関わる三隊に向ける視線は尊敬や憧憬ばかりではない。むしろねたみやそねみといったネガティブな反応の方が多かった。


「ここがもし氾濫したら、俺たちが対応するの?」

「私たちの職責範囲は上の二峰だけだよ。緊急時はどうなるか分からないけど、温泉街は自衛隊と警察の方で管理してるって聞いてる。でも、氾濫よりもっと面倒な対応を迫られるかも」


 自衛隊も警察も氾濫対策で大規模な人員を割いていたが、実際には後を絶たない違法入山者の対応に追われていた。

 標高が高ければ高いほど貴重なドロップ品が得られる。

 あわよくば山頂まで行って山核を手中に収め、山の支配者になれるのではないか。

 標高700メートルまで一般の人間が登れる唯一の場所だからこそ、一攫千金を夢見る人は多かった。

 県道から街を見下ろす位置にあるイカオ神社まで365段ある石段。その両脇には多くの土産物屋、飲食店、射的などを扱う遊技場に溢れていたが、賑やかに行き交う人々の中には、観光地を楽しむ素振りも見せず、切迫感を露わに浮かべた人も見える。

 百合香ゆりかの懸念は、警察や自衛隊の面々ですらおもむけない、違法入山者の救助に向かうことを表している。


「でも俺たちってそもそも救助隊なんだから、誰であっても助けに行くんだろ?」

「正式な職務範囲は、関係者及び入山許可証を持っている人だけを救助する。って説明を受けたでしょ?」

「それが建前だってこともね。まあ、違法入山者は入山許可証が無いから山に入っても分からないし、助ける義務もキリもないんだろうけど」

「違法入山者を全部救助しようとしたら世の中セイバーだらけになりそうね」

「山に入りたいなら、ちゃんと隊員になればいいんだ」

「義務を負うって発想がないのかも。手っ取り早く利益を得たい。そう思う人はたくさんいるよ。それに、学校に行けない人や就職先が見つからない人の方が多いんだから」


 山核によって、日本の国土の半分以上が山核化し、そこにあった企業の工場や公共施設、交通インフラの多くが機能を停止した。

 国はこの四年近くで人口の三割を失い、連絡が途絶した県も多く、行方不明者の総数は把握できていない。

 さらに、明確に職を失った人は1000万人を軽く越えていた。

 併せて海路以外の貿易手段を無くし、食料や生活物資の慢性的な不足による治安悪化が進む。

 それを取り締まる警察や自衛隊は、山からの氾濫対応に精一杯だった。


「学校に行けて、入隊試験を受けられるのも特権ってことか」

「合格するのだって狭き門だったでしょ? そこは自信を持とうよ」

「入隊試験を受ける資格が厳しかっただけじゃん。試験を受けたのってハルナでも50人くらいだったよね?」

「不人気のセイバーはね。クライマーとハンターは千人単位だよ?」


 かいはもちろん知っていた。

 ハンターの試験に落ちて、セイバーの二次試験で拾ってもらったからだ。


 人の流れに沿って石段を登り、地図に従いハルナ神社の手前で左の路地に進む。

 そのまま進むと閉鎖されたロープウェイ駅があるのだが、そこに至る道路も封鎖されていて、観光客が立ち寄る店もないためか、人の往来が急になくなった。

 それまでは混雑に合わせて小声で会話していた二人だが、いきなり変化した静謐な空気に、まるで山核の範囲内に入り込んだ気分を抱く。


「……急に人気ひとけがなくなったな」

「ほんと、嘘みたいに……」


 青空と鳥のさえずり、後方から聞こえるわずかな喧騒がなければ、異界と言われても驚かない。そんな変化に二人は自然とお互いの距離を縮めながら歩を進める。

 そして地図が指し示す“赤い屋根の三階建て”と思しき場所に至る。


「もの、べ? 設計事務所?」

物部もののべって読むの。物部設計事務所」


 物知りなんだな。と感心しながら百合香ゆりかを見たかいは、彼女の表情が喜びに輝いていることに気付く。



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・イカオ温泉は山核発生以降も無事に栄えている温泉地。二人は温泉街を、情報交換しながらお使いの目的地へ向かう。

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