the other

さかきな和都

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まるでドラマでしか聞かないような音が、2人だけの教室に落ちて行った。時計の声が、びっくりするほど響いている。ろくに話したこともない塩野明來しおのあきらくんの言葉は、私にはたいそう衝撃的だった。

「いっしょに心中しない?」

「……言う相手は私であっとる?」

小笠原淑乃おがさわらよしのさんを誘っとる」

クラスが同じになって2月は経つが、特に何かをした覚えはなかった。友達でもないクラスメイトに、普通心中を持ちかけるだろうか。居心地が悪くて、1房の横髪をなぞった。

「心中に誘われるようなことした覚えないんやけど」

「それはそうやろうね」

「私以外にもそんなこと言って回っとんの?」

「小笠原だけや。こんなこと、誰もかれもに言い回らん」

塩野くんが、目を潰して笑う。あ、と思った。私がキャラを作って手に入れた友人と話している時、その顔に見つめられたことがある。

塩野くんが唐突に冷たい音を出した。

「僕はね、壊されたいんや」

「壊れたいんやなくて?」

「そこんところはわからんわ」

塩野くんが、ひどく暗い目をして俯いてしまう。私の言葉が塩野くんを黙らせたみたいで、少し嫌になる。視線が合わないから、何を言えばいいのかわからなくて、前で組んでいた手を後ろに回した。

塩野くんの言う壊されたいという言葉は、私の思う死にたいとそんなに変わらないと思う。

「塩野くんの言う心中って何? 遺書でも書くん?」

「遺書は考えたことなかったわ」

「ほう」

後ろに回した手に力を込めた。心中という言葉は、塩野くんから飛び出したものでこそあれ、それほど本格的なものではなくて、何かを探す手段なのではないだろうか、と無意味に思った。

「……何で私なん?」

「答えが見つかる予感がした」

私の仮説は、案外遠いものではないらしい。背中に全体的に鳥肌が走っている。息を吸い込んだ塩野くんは、言葉をひとつひとつ選ぶみたいに私へと向き直る。

「ただ、小笠原のことが知りたいんや。……僕の心中に乗る?それとも乗らん?」

「……わかった、乗っかるわ」

死にたいけど死にたくない。死にたくないけど死にたい。私に心中を持ちかける塩野くんは、どっちなのだろうと、ふと思ってしまった。




「心中ごっこ」と名前をつけたのは私だ。1回目の心中ごっこの行先は、電車で何駅も離れた駅らしい。

金曜日の放課後だと言うのに人気のない電車を見ていると、まるで本当に自分たちが死にに行くみたいだな、と思った。

普段お姉ちゃんのお下がりである自転車で通学している私には、車窓越しに見る景色は、非日常感に溢れていて、面白くて仕方がない。

隣にいる塩野くんを見やると、分厚い本を開いている。表紙を見ると、太宰治全作品辞典とあった。

「難しい本を読むんやね」

「目的地までは長いから」

「ほう」

私は文を追うことが苦手なので、塩野くんと本の話はできない。今度本嫌いでも読めそうな本でも聞いてみよかな。本から再度視線を戻すと、微かに海が見え始めるところだった。

今日は惚れ惚れするほどの快晴で、太陽に照らされた海がキラキラピカピカ光っている。嬉しくなって口角があがる。鼻歌でも歌い出しそうな気分だ。

ふと塩野くんが「ねえ」と私を呼んだ。塩野くんに体ごと首を向ける。

「…………もう再びお目にかかりませんって言われたら、どうする?」

「え?」

「やっぱ何でもないや」

塩野くんは言うなり、読書に戻ってしまった。もう再びお目にかかりません、というその言葉が、どういう意味合いなのかわからない。心中ごっこはこれで終わりという意味か? いや心中ごっこを回避したところで、学校で毎日会うのだから、それは本当の意味での終わりにはならないだろう。どうやら私は、難しいことを考えるのも苦手らしい。もうすっかり考えることには飽きて、塩野くんが読み終わったページ数を眺めてみる。さっきまで5分の1もなかったページ数がみるみる半分を越していく。速読だなぁ、と安易に思った。

と、塩野くんが立ち上がって、本を仕舞い始める。もう到着したのだろうか。照らし合わせたみたいに開いた扉は、まるで自分たちを歓迎してるみたいに思えた。

「ここいいやろ。人の声がない上に1時間に1回しか電車が来んの」

少し得意げな顔は、私に心中を持ちかけてきたあの時の顔とまるで違って、少し安心する。まだ駅にいるのに、海の香りが漂っていた。

「ええねぇ。海でも行く?」

「…………ええよ」

切符を入れて駅を出ると、すぐに海が目に入って、私は駆け出した。寄せては引いていく海の音は、耳に優しい。ローファーと靴下を半ば蹴るように置いて、波に触れると、足首までがひんやりとして心地がよかった。

「塩野くんもおいでよ、ひんやりしとるよ」

「わかっとる」

律儀に脱いだ靴下を丸めて靴に入れてから、ズボンをたくし上げた塩野くんがこちらに来た。砂浜に座り込んで、足を濡れさせる塩野くんは、ほんの少し楽しそうに見える。

「塩野くんは何で本が好きなん?」

「何でってそれ、どう答えればええ?」

「ごめん。本の面白いところ?」

私の唐突な質問に面食らった顔の塩野くんは、少し考え込んでいる。恐る恐るといった様子で、塩野くんが声を上げた。

「例えば、僕が三途の川やと思ったら、例えそれがただの海でも、三途の川にしていいのが本の面白さやと思う」

難しいことは私にはよくわからない。

「三途の川ってあれやろ、初めての相手に背負われて渡るやつやんね」

素っ頓狂な角度で返事をする。「どこで見たん?」と塩野くんは少し笑った。どうだろう、Twitterかテレビだった気がする。

「例えが悪かったやろか」

「そうやなくて、私が難しいことがわからんだけ」

「……そうだなぁ、じゃあ、目の前に食パンがあるとして、高級食パンである、という文を入れれば、その食パンが高級食パンになる感じ?」

「なんかほんの少しわかったような気がする」

嬉しそうな塩野くんは、膝まで海に浸かり出した。海に行こうと誘ったのは私なのに、海と塩野くんの組み合わせは、本当に死んでしまいそうな気がして、寂しくなった。ざざー、と繰り返す音が、どうしてこんなに塩野くんを攫ってしまいそうに聞こえるんだろう。その背中に追いつきたくて、ふと海面を蹴りあげる。跳ねた水がスカートを濡らした。




まるで雷が落ちたみたいだった。お姉ちゃんにこんなに冷たい両親は、これまでに見たことがない。

綾乃あやの、今何て?」

「だからごめんって。私は結婚できないし、したくない」

蒼唯あおいくんのことはどないするんよ。まさか婚約破棄でもするつもり?」

「そうなるやんね」

お母さんが震えた手で、飲もうとしたお茶を零している。

私は、私にだって優しかった蒼唯くんとの結婚を蹴るお姉ちゃんの気持ちが何もわからなかった。婚約破棄すると言い放っているわりに、お姉ちゃんはあまりにも動じていない。

「何が不満なんや」

「もともと結婚する気のない付き合いやったけど、ここに来て欲が出た。私はやっぱり蒼唯くんとはいっしょになれん」

「結婚する気のない付き合いって、それが婚約まで漕ぎ着けた相手への言い分か? なぁ」

お父さんの声が荒れた。お姉ちゃんは静かに2人を見つめている。私はこの場から今すぐにでも逃げ出したくなって、自分の手首を握った。

「……お父さん、お母さん、あのね、私女の子が好きなんや」

「こんな時に冗談言うなや」

「冗談やない。本当はずっと前からそうやったけど、知らんふりして生きてきた。でも、もう偽れん」

「せめて蒼唯くんと婚約する前やったら、まだきちんと覚悟ができよったのに」

「覚悟って何?」

「俺は絶対に許さんぞ。蒼唯くんと結婚して、きちんと孫を産んで、話はそれからや」

「……それだけが私の幸せやと思っとんの?」

この場でお姉ちゃんだけが強気だ。お母さんが押し黙って、お父さんも口を閉ざしている。お姉ちゃんは勝手だ、と思った。だけど、私は何も言わない。涙が出そうになる。そんな怖い顔をする皆を見たくなくて、目を閉じた。

「私の初恋の人、知っとるよね。小学生の頃のバレーボール部の先輩って」

「その頃から女好きやったとでも言うんか」

「ほうや。今でも連絡取っとるし、婚約破棄したらその人とシェアハウスする。それが蒼唯くんのためにもなるはずや」

どん、と音がして、机にお父さんの拳が下りる。小さい音で「俺は許さん」と残したお父さんは、部屋へと消えていった。その背は、いつもよりずいぶん小さく見える。お母さんは泣いていた。

「……ごめんね、親不孝で。こんな娘で嫌んなるやろ」

「嫌やない、嫌やないよ。ただ、びっくりしてね、お父さんもきっとそうやから、気にせんといてよ」

「わかっとる」

「でも、気付いてあげれんくて、苦労かけたね」

「ううん、黙ってるのにわかるはずないもん。それでも、もう後悔したくない」

ティッシュで顔を抑えるお母さんの手を、お姉ちゃんがさすっている。

「お姉ちゃんは、何でそんなにずるいん……」

思わず心の声がこぼれ落ちる。お姉ちゃんがびっくりした顔でこちらを見ていた。

「何がずるいんよ」

「全部や。蒼唯くん泣かせて、自分は初恋の人とシェアハウスするって、都合良すぎやん。何で私には何も話してくれやんの。お姉ちゃんが話してる人だって知らんのに、何で勝手にいなくなりよるんよ」

一息に言い切ってから、部屋に向かう。カバンにスマホを投げ入れて、家を飛び出した。お姉ちゃんが私の名前を呼んだけれど、私は振り返らなかった。

液晶を光らせて「心中ごっこせん?」と塩野くんに送信しながら、階段に座り込んで1人で泣いた。お姉ちゃんが私を探しに来ないことにも苛立ちながら、来てくれるという塩野くんを待つ。夜空を見ていると、時間が経つのはあっという間だった。

「遅くなった」と塩野くんが階段を上って来る頃には、15分が経っていた。

「どうした、何かあったんか、大丈夫か」

「……お姉ちゃんと喧嘩した」

「ほうか……」

私にハンカチを手渡してくる塩野くんは、先頭を立って屋上に向かった。6階上がるだけの屋上にすら、私は1人で行ったことがない。借りたハンカチで、涙を拭っても、次から次にこぼれ落ちる涙には追いつかない。屋上に上がると、空気がばっと抜けて、一瞬涙が止まった。

「何もできんけど、俺でよければ聞くよ」

「でも、あんまいい話やないし、心中ごっこで言う話でもないし」

「そんなん関係ない。泣きそうな顔しとるのに、このままいるのは嫌や」

真っ直ぐな顔で塩野くんにそんなことを言われたら、私はすぐに聞いてほしくなってしまった。お姉ちゃんのことを思い出して、声が変に上擦る。

「結婚しよるって言ってたお姉ちゃんが、婚約破棄して、初恋の人とシェアハウスするって言うから、私は頭がこんがらがっとる」

「…………それは、お姉さんにとっては、良かったんやない?」

まるで動じずに塩野くんが言った。確かに、初恋の人と過ごせるお姉ちゃんからしたら良かったんかも知らんけど、残された蒼唯くんはどうしたらいいん? 私は普通に応援していいん? ねぇ。

「初恋の人がお姉ちゃんと同性でも?」

「好きな人に性別は関係ないやろ」

凛とした瞳だ。塩野くんは、私からあえて視線を外して続ける。

「小笠原は読んどらんかもしれんけど、小説の世界ではいっぱいあるぞ。好きな男に否定されたからその男を売る男とか、初恋の女刑事に逮捕されたかった女の子とか」

「私は本は苦手やけん」

「ほうか。無理して受け入れる必要も、否定する必要もないと思うで」

私が何も言えないでいると「小笠原はお姉さんの口から直接聞きたかったんやな」と優しい声が聞こえた。

「……なあ、塩野くん」

「何や」

「私、蒼唯くんのことを話すお姉ちゃんが、楽しそうじゃなかったのに気付けなかったのが悔しいんやと思う。変かな」

「変なわけないやん。それは小笠原の気持ちやろ。大事にしいよ」

塩野くんと話していると、自分の気持ちがみるみる整理されていくようだった。お姉ちゃんが誰を好きでも、私には関係がないからこそ、お姉ちゃんの口からきちんと聞きたかったし、紹介されたかった。それは、蒼唯くんのことを話すお姉ちゃんに対する違和感に、自力で気付きたかったことと、反発しない。お姉ちゃんには悪いことをしたな、とため息を落とす。塩野くんを見た。

「落ち着いた?」

「うん」

「良かった」

「……次の心中ごっこはどこにする?」

「もうそろそろ夏休み入るけん、自転車でどっか行くとかどう?」

「楽しそうやね」

震える手を隠すために、私はハンカチを握りしめた。




夏休みに塩野くんと心中ごっこに出かけるために、私としては珍しく服を新調した。誰かに見せるために服を買うという状況は、恋人のいない私にはあまり訪れないものである。ピンクベージュのトップス、千鳥柄のミニスカート、丸襟のついたブラックのワンピース、ツイードのミニスカパン。私は、ファッションに関しては、人一倍好きだと言っていいと自分で思っている。結局、袖がシアーになったピンクベージュのトップスに、ツイード素材にボタンが4つついたミニスカパンで行くことにした。

「今日はどこに行くん?」

「商店街にでも行こう思っとるけど、行きたいところある?」

「ほんならお花屋さん行こうや」

「わかった」

塩野くんはイメージ通りブルーグレーの半袖に、緑色のカーゴパンツだ。青色の自転車がよく映える。インスタで恋人とのツーショットをあげるより、今の塩野くんを上げた方が幾倍かバズる気がする。と言っても、私のインスタはほぼ見るだけで、ろくに投稿なぞしないのだが。

私を後ろに乗せて、塩野くんが自転車を走らせる。ペダルを漕ぐ足は、カラフルな靴下をまとっていた。

「塩野くんは行きたいところないん? いっつも私ばっかりな気がする」

「僕には欠陥があるんや。それを埋めるために心中ごっこをしとる。小笠原の行きたいとこが、僕の行きたいところになる。だから大丈夫や」

自転車を漕いでいて、顔が見えないことがもどかしい。どんな顔でそんなことを言うのだろう。私にだって欠陥はあるよ、塩野くん。口にはせずに、塩野くんのお腹に回した手を、強く固めた。

「塩野くんに欠陥なんてあるん」

「大きいやつがある」

「どんなの」

「感情の欠落や」

「へえ、それは難しそうやね」

何があって、塩野くんは自分に感情の欠陥があると思っているのだろうか。顔を見ようと首を傾けてみる。腕にできた引っ掻き傷は目に入るが、塩野くんの顔を覗き見るには身長が足らない。自転車が止まって、地面に足を下ろすよう促される。一瞬冷たい瞳をした塩野くんは、いつもの温かな視線に戻って、自転車を停車させた。

「花好きなんか」

「お花の図鑑開くのが好きなだけやけん。子どもっぽいけど」

「いや、いいと思う。花言葉とかも詳しいん?」

「あんまり詳しくないけど、月下美人とか、青色のカーネーションとか、百合は好き」

隣にいる塩野くんに笑いかける。わからない分野だろうに、私の話に相槌を打ってくれる塩野くんは、本当に優しい。

「月下美人は一年に一回しか花開かんから、儚い恋って花言葉があって、私はこれが1番好き」

一瞬塩野くんの眼差しが鋭くなって、すぐに戻る。瞬きをして続きの説明に入る。

「青色のカーネーションは、永遠の幸福って花言葉があるんよ。私は色によって変わる花が好きなんかもしれん」

「青色のカーネーションなんてあるんや」

「母の日に赤いカーネーション買いに行くけん、赤のイメージ強いよね、なんかわかるよ」

塩野くんが淡く笑った。

「百合は、純粋、無垢、純潔みたいに清い花言葉が多くて綺麗やんね。今やったら百合も売っとるはず」

「あるとええね」

こんなに花の香りを一気に吸い込むのは、小学生の頃に行ったひまわり畑ぶりだなぁ、と思惟した。ひまわりが目に入る。ひまわりが花瓶に立てられていると、ゴッホの絵画のようだ。ひまわりは夏そのもののようで、少し眩しい。立てられた花たち、苗が並んだスペース、ドライフラワーのコーナー。どこを見ても心が踊る。私の数歩後ろを歩いていた塩野くんを見れば、高いところに吊るされたドライフラワーを眺めているところだった。

店を見渡していると、一際照明に照らされた花が目につく。お目当ての百合だ。

「小笠原、あるよ」

「ほうやね。どうしよ、買って帰ろかな」

「白もオレンジもピンクも黄色も、どれも花言葉は違うん?」

「違うよ。白百合綺麗やなぁ、部屋に飾れるかな」

百合と言えば、やはり白だろう。綺麗な白百合だ。近付いて匂いをかぐと、甘い香りがして、思わず顔が綻んだ。花瓶なんて部屋にないけど、かわいい花瓶を買いに行こう。

「私買うわ。白百合、部屋に連れて帰りたい」

「買っといでや。待っとるけん」

塩野くんの言う通り、白百合を1輪レジに持って行く。手元にある百合を見ていると、こちらまで清くなった気がして、すでに買って良かったなと思った。自分はこれほど単純だっただろうか。

店を出ると、雨の降ってくる前の匂いがしていた。見やった塩野くんは、空を眺めている。

「どっか入る? 雨降って来そうや」

「小笠原他に行きたいところは?」

「本屋さんとか行ってみん?」

塩野くんは頷いた後、すぐに自転車を走らせた。私の片手には百合があるから、来た時みたいに塩野くんに固く手は回せない。自転車が段差で跳ねる度に、私の体も振動で揺れる。小説も読まなければ、漫画にも秀でていない私には、本屋さんに行くハードルは高いけれど、難しそうな本を読む塩野くんといっしょになら入れる気がした。

「目当ての本でもあるんか?」

「そんなんないよ。本屋さんって敷居高いことない?」

「そんなことないと思うけど」

塩野くんが笑っているのが、体を伝って私にも伝わる。私たちは心中で繋がっているのに、何てことのない会話をするのが、どうしてこんなに心地いいのだろう。ふと、塩野くんの闇に触れてみたくなった。こんなに近くにいるのに、触れると消えてしまいそうな儚さをまとう塩野くんは、遠い。




塩野くんに借りたハンカチは、学校に行く時も、心中ごっこでも持ち忘れて、未だ返せないままでいる。「ハンカチ返したいんやけど、近いうち空いてる日ない?」とLINEを打ってから、ハンカチなんて口実は弱かったな、と後悔した。学校で渡せるのなら、それよりいい方法なんてない。

塩野くんからの返信がすぐに届く。私がLINEを送ってから、五分ほどしか経っていなかった。どうやら、心中ごっこの出番らしい。

「これ、ずっと先延ばしにしよってごめん」

玄関でハンカチの入った紙袋を手渡す。もうこれで、今日こそは忘れることはない。塩野くんの家で見る塩野くんは、すでに学校外で何度も会っているはずなのに新鮮な衝撃があった。

「入ってや」と促す塩野くんに連れられ、リビングへと通される。テレビとダイニングテーブル、チェアなど、家具の統一された部屋は、まるでおもちゃのように綺麗だ。

「で、今日は何しよるん」

「……心中ごっこのつもりで来たけん。私塩野くんに聞きたいことがある」

「……ほう。僕が答えられる範囲やったら」

はにかむように頬をかく塩野くんに、これから投げかける質問を思うと、罪悪感で胃が悲鳴をあげる。軽く両頬を叩いて、チェアへと腰掛けた。

「前に言っとった、感情の欠陥って、何のこと?」

「そんなん聞いて楽しい?」

「興味心やけん、気にせんでや」

「ほうか」

居心地が悪そうに、チェアに座り直しながら、塩野くんが私に視線を合わせる。まるで腹を括って何かを言うようで、身構えた。

「………………小笠原にとって、恋ってどんなんや」

どんな恐ろしい言葉が投げられるのか身構えていた分、拍子抜けしながら、小学生のような答えを返す。

「相手を大好きって思う気持ち……?」

「俺にはそれがわからん。まるで始めからないみたいに、ずっと前から恋がわからんのや」

「……ほう?」

「変か?」

「ううん、それを大きな欠陥言う塩野くんが変や」

私の言葉に、塩野くんは顔を固まらせた。お姉ちゃんのことがあってから、恋愛や性別におけるあれこれを必死で調べた私には、それほど変なこととは思えない。

「サッカー部にいる全員が、サッカー選手になるわけやないやん? サッカーが好きな子も、運動が好きな子も、球技が好きな子も、サッカーを見るのが好きな子もおって、たっくさんの関わり方があって、そのどれもが間違っとらん。やから、塩野くんが悩むことは何もないよ」

お姉ちゃんが女の人を好きやって言う気持ちも、恋がわからんって言う塩野くんの気持ちも、どれもが正解だ。何も間違ってないし、変でもない。そう私は力強く思う。

「……そんなこと言うの小笠原だけや」

言うなり塩野くんは顔を隠してしまう。チェアの上に膝を立てて、ぴったり手で顔を覆う塩野くんは、どこか退廃的だった。サッカー部に例えたのは、わかりづらかっただろうか。それでも小学生の頃、友達と少しでも長くいっしょにいたくてサッカー部に入っていた私が言えば、信ぴょう性は上がるはずだ。

「……塩野くんは、心中ごっこで行った先で、いつか死んでしまうん?」

顔が見えないのをいい事に、面と向かっては言えないことを言う私は弱い。体に力を込めた塩野くんは、ゆっくりと首を左右に降った。

「こんなんずるいし、言い訳にしかならんけど、小笠原がいつも貼り付けた顔で誰かと喋っとるのを見てられんかったんや。この心中ごっこに意味はないよ。強いて言うなら、いつか死のうと思った時に場所の意味で助かるかも知らん」

「それ死んでまうやん」

心中ごっこに意味がないと言うわりに、いつかこの日々が助けになるかもしれないと言っている塩野くんの言葉は、矛盾に塗れている。私、そんな貼り付けたような顔しとるんやろか。メイクを重ねた今の自分の顔にすら、自信がなくなってしまう。

「塩野くんは、壊されたいって言いよったけど、私が同じやと思ってた感情は、誰かに連れ出して欲しいやった」

「心中ごっこ、役に立っとるやん」

「ほう。塩野くんの言う壊されたいは、本当に壊されたいなんかな」

「……あの時、壊れたいんやなくて? って聞いてきよったな、小笠原」

「壊されたい言う人が、本当に壊されたいわけなくない?」

「それはそうかも」

塩野くんに倣って、私もチェアの上で体育座りをしてみる。まだ塩野くんは、その顔を私に晒さないままだ。

「誰かに連れ出して欲しいって、どんな感覚?」

「自分の置かれた場所がつらいから、誰かにここから連れ出して、助けて欲しいって感じや。私はよくこうなる」

「僕のとは違うみたいやな」

「でも、常日頃その感情と向き合っとるわけやなくて、本当にしんどい時にだけ、そうなる」

1日中幸せな日がないように、1日中つらいだけの日もないのだから、せいぜい1月に2度程度、誰かに連れ出して欲しいと私は願っている。

「例えば、暗い曲って、心が苦しい時に聞きたくなるんよ。精神の栄養剤みたいに惹かれるくせに、元気になったら聞かなくなっちゃう。何だかちょっと寂しいよね」

「それはだいぶ身に覚えがあるわ」

塩野くんがやっとのことで、私にその顔を晒す。いつもの数割増で、濡れた瞳が寂しそうだった。

「塩野くんは、私より長生きしてや」

「そんなんわからんやん」

「一般的には女性の方が長生きしよるって言うけど、うち、おばあちゃんの方が先に亡くなっとるけん、可能性はあるよ」

「……僕は小笠原に他の誰よりも長生きして欲しい」

「長生きより幸せを祈られたいもんやわ」

軽く顎を引いた塩野くんは、微かに口角を上げて見せた。もし塩野くんに、すでに幸せを祈る相手がいるのなら、今の言葉は場違いだ。

「幸せになって欲しい」

塩野くんが私に向けて、真っ直ぐに呟いた。モラトリアムを過ごしている私たちだから、心中ごっこに明け暮れているのだろうか。モラトリアムの最中だから、塩野くんの言葉がこんなに染みるのだろうか。もう何もわからなくて、ぎゅっと目を瞑った。




一般的に自殺者の多いとされる8月31日ではなく、まだ肌寒い1月に塩野くんは死んだ。塩野くんの誕生日を知っている私は、16歳の内に生涯を終えた塩野くんに思いを馳せてしまう。

ながら運転をしていたトラックに引かれて即死だった、と全校集会で聞かされた音は、まるで形を成していないみたいだった。死んだ、誰が、塩野くんが。自分の吐く音でさえうるさい。焦点の合わない視界に、ふと委員長が映り込む。その瞳は私を鋭く刺していた。

「何で泣かんの」

もうすでに泣き腫らしている赤い瞼は、普段通りの私と正反対で、逃げ出したくなる。

「わかんない」

やっと絞り出した声でさえたどたどしくて、委員長の舌打ちだけが虚しく響いた。

塩野くんが死んだとHRで聞かされて、全校集会があった後、どうやって帰ったのか記憶がない。気付けば家の前にいて、姉にソファへと連れて来られていた。

「おかえり」

「うん……」

「淑乃、大丈夫なん?」

「うん……」

塩野くんのことを考えると、何も手につかなくなる。私の何もしたくないこの気持ちは、怠惰だろうか。

お姉ちゃんが、ふとカップに珈琲を注いでくれるのが見えた。私は無糖の珈琲は飲めないから、牛乳を入れて苦味を抑える。お姉ちゃんに手渡されて口に含んだカフェオレは、まるで味がしなかった。

私が何も言えなくなっているのを見て、お姉ちゃんがため息をつく音がした。

「話そうや」と私の肩に腕を回してお姉ちゃんは言った。

「何を?」

「塩野くんのことでも、何でも」

「……お姉ちゃんは?」

少し考えたけれど、何を言っていいのかわからない。話を聞いている方が、まだ今の私にもできる気がした。肩を2回叩いて、お姉ちゃんが話し始める。

紫織さんと結婚したかったこと。蒼唯くんと結婚することは1つの賭けで、本当は蒼唯くんの姉である紫織さんといることが目的だったこと。蒼唯くんの夢が好きな人と結婚することだと知って、傷をつけられないと思ったこと。紫織さんとのシェアハウスが待っている今は幸せなこと。

「今が1番幸せ」と笑うお姉ちゃんは、本当に幸せそうだ。

「お姉ちゃんから見た蒼唯くんってどんな人?」

「少し優しすぎるくらい、優しい人」

「それはなんかわかる気するわ」

「淑乃の思う塩野くんはどうなん?」

努めて優しい声でお姉ちゃんが言う。私にとって塩野くんは、どんな存在なのだろう。友達と言っていい間柄なのかすら、自分ではわからない。

「……心の綺麗な人。私の知っとる人の中で1番優しい」

「ええ友達を持ったんやね」

何を言っても間違いな気がして、せめて口を閉ざした。

「淑乃、もうそんなにしなくていいんよ」

隣から聞こえてくる柔和な声に、縋りたくなる。お姉ちゃんは、私の肩に手を回して、自分の体へと寄せた。すん、すん、と鼻をすする音がしていて、私の代わりにお姉ちゃんが泣いてくれているみたいだ。

蒼唯くんと婚約破棄すると聞いた時、お姉ちゃんと喧嘩をしたことも懐かしく思えてくる。お姉ちゃんが今幸せなのなら、それより望んだことはない。お姉ちゃんがシェアハウスをする影響で、私への結婚願望が増したことは、無問題だ。

「お姉ちゃん、幸せになってね」

「任しい」

お姉ちゃんはわしゃわしゃと私の頭を撫でた。




2人しかいない教室に、虚しく私の声が響く。

「勝手に自分だけ燻らんといて」

怒りなのか悲しみなのかわからない涙が、息をする度に溢れてくる。私は物事のありがたみに気付けない人間が嫌いなのだから、そのどちらでもおかしくはない。小笠原さんは何も言わなかった。

「私知っとるんよ、2人の秘密も全部」

ふと、その瞳に色が宿ったような気になる。こちらをむく視線が、一層厳しいものになった。だけど、事実だ。心中ごっこを実行していたことも、その相手に私は選ばれなかったことも、私だけが知っている。

「何で、どこで……」

目に見えて動揺している小笠原さんは、私の方へ近付こうとして、椅子を倒した。すぐに倒れた椅子を起こしている。短い息を吐いた。誰もいない教室は、自白を置いておくには適任の場所だろう。

「その場にいたから。2人のいる教室には入れずに、廊下で盗み聞きした」

「声かけてよ」

「かけられるわけないやん。気にかけてる子の破滅願望盗み聞いて、どんな顔で割り入れって言うん」

塩野くんを思い出すと、頭がズキズキするから、おでこに手を当てて首を振った。私が熱くなればなるほど、小笠原さんが冷静になっていく。火照った顔も、小笠原さんに感情をぶつける自分のことも、全部が全部嫌だった。

「……委員長、もしかして塩野くんのこと好きやった?」

「そんなんじゃない」

「じゃあ何で気にかけてるん? 私馬鹿やから1からちゃんと教えて欲しい」

凛とした瞳がこちらを向いている。真っ直ぐな表情は、私と小笠原さんの違いを的確に教えてくるだけだ。

「名前、褒めてくれたから」

あまりにも小さな出来事だろう。小学生でももう少しましなきっかけがあるとすら思う。冷たい言葉が返ってくるかと思いきや、そんなことはなく「へえ」と言った小笠原さんの声は優しかった。

「委員長の名前、確かにりんこって綺麗な響きやもんね」

「でも私は好きやない。塩野くんが褒めてくれたから、私は自分の名前を初めていいのかもしれないって思えた」

「どこが嫌なんか聞いていい?」

「大したことやないけど、こやなくてかやったら、もっとかわいい響きやったのにって」

「たしろりんかよりは、たしろりんこの方が委員長ぽくてかわいいと思うけど」

あまりにも突拍子がないから、冗談でも飛ばされたのかと思った。小笠原さんは、私を視界の真ん中で捉えている。全く視線を逸らそうとしないその意志の強さが、言葉の真偽を教えてくるようだった。

「最初に言ってくれたのが塩野くんやったから、私にとって、塩野くんは周りの人とは少し違う」

「……なんかいいね」

その長い髪が揺れる。小笠原さんは、自分の倒した椅子に腰掛けていた。その目が私に座るよう促している。私が自分の席じゃない椅子に、おずおずと腰を下ろすと、小笠原さんは寂しそうに笑った。

「じゃあ、委員長は、心中ごっこしたかった?」

「……ちょっとは」

前の席に座って横向きに私を向く体は、どこを見ても私にないものだ、と思う。私が塩野くんの立場であっても、私ではなく彼女を選ぶだろう。

「何で?」

「何でって……」

「あ、塩野くんのこと気にかけてるからか」

「そうや。塩野くんが心中ごっこ持ちかけた日、あんたが帰った後に私じゃいかんの? って聞いた」

「……塩野くんは何て?」

「ごめんね、やと」

ただでさえ大きな瞳が、めいっぱい膨らまされる。瞳に反射する自分の姿は、大変に醜い。だから私は自己武装でメガネをするのだ。今はメガネが手元になくて、少し心もとない。

「委員長も塩野くんの特別やったんや」

たっぷりと沈黙した後に、明るくつとめた声で小笠原さんが言った。

その突拍子のない言葉に、思わず面食らう。はあ、と言いかけて慌てて飲み込んだ。小笠原さんが続ける。

「委員長は私と違って清いから、きっと汚したくなかったんよ。私だってそうする」

「何言っとんの、あんた。もしそうなら、何で私じゃなくてあんたが選ばれるんよ」

「委員長だけは巻き込めんかったんやない?」

嬉々として言ってくる小笠原さんが憎い。私は、塩野くんの隣にいるのが小笠原さんだったから、私じゃなかったから、あんたが止めてくれなかったことに怒ってるのに、何でそんなこと言うん。

「……私あんたを許さへん。1番近くにいたのに何で止めてくれへんの」

私の腹の底から出したような低い声は、小笠原さんの勢いを止めた。こんなのは筋違いだ。わかっている。だけど、この感情を自分の中で押し殺しておくには、少しその量が増えすぎてしまった。

「私は隣におることすら叶わんかったのに」

「……塩野くんといるのが委員長やったら良かったね」

そう言った小笠原さんの顔には、心寂しそうな笑みが浮かんでいた。

「そんなこと言ったって、もうどうにもならんやん」

私がどれだけ騒ごうが、小笠原さんをどれだけなじろうが、もう塩野くんは戻ってこない。そんなことは知っている。塩野くんが死んだのに、安閑していることが何にも勝る証明だ。

ふと、カーテンに視線をやって、音もなく涙を流す小笠原さんが目に入る。朝礼でも泣かなかったあんたが、今泣くん? そこに私はいていいん、ねぇ。言いたいこともろくに言えないまま、ただその視線の先を追う。夕日が差し込む窓辺は、私たちのいる場所と対照的に明るかった。

もう、塩野くんには会えない。死ぬことの意味を、やっと理解した気分だ。伝染するように私も涙にくれる。

「塩野くんだけありがとうって言ってくれるのも、ほんまに好きやったな……」

こちらを向いた顔が、涙できらきらと輝いている。「ええ恋やね」と言ってから、違うんやったと小笠原さんは口角を上げた。

「委員長知ってる? 塩野くんって、かわいい靴下履いとるんよ」

「何それ、どこ見とるんよ」

「心中ごっこの時に見えよった」

「……他にはないの、私の知らん塩野くんのこと」

机にもたれて、顔を隠しながら、小笠原さんの話をもっと聞きたくなった。

「実はしゃぶしゃぶに詳しいとか」

「この辺2軒くらいしかないね」

「そうそう。だから、家でどうやって最高のしゃぶしゃぶを食べるか研究したりしよるんやって」

「ほんでも、焼肉派の方が多い気するわ」

「私だってそうやよ」

くぐもった笑い声がもれる。こちらがすんとなる頃合いを見計らって、小笠原さんが続きに入る。

「塩野くんの趣味は知っとる?」

「読書やない? 女生徒の話しよったから、太宰治が好きなんや思ってた」

「それはその通りやけど、もう1個ありよって、自転車が得意なんよ」

「塩野くん自転車通学組やっけ?」

「電車やと思う」

塩野くんが自転車に乗る姿を想像する。二人は仲良く、仲睦まじく、恋仲のように自転車に乗ったのだろうか。きっと実際のところはまるっきり違うのだろう。ゆっくりと、些か痛む頭を上げる。

「塩野くん、難しい本読んどったな」

「太宰治作品?」

「何か太宰治の辞典みたいなん」

「ああ、私も読んだことあるよ、あれ。私は女生徒が好きやから、図書館で立ち読みしたんやけど、太宰治作品を1つ読む度に、辞典で開いてみると面白いけん」

目をぱちぱちと叩く小笠原さんから、悪意は感じられない。本を読まないタイプだろうな、と考察していたが、太宰治に造形が深いわけではないらしい。

「聞いていい?」

「ええよ」と小笠原さんはどこか嬉しそうだ。

「普段本は読まんの?」

「漫画くらいかなぁ。あ、でもお花の図鑑はよく開く」

「私流行りの漫画はわからへんわ」

「私も詳しくはないけど、ほら、ブラック・ジャックとか面白いよ」

「それが何年前の漫画か知ってる?」

「知らん」

「私らが生まれる前やよ」

「そんな前なんや。通りでおばあちゃん家に揃っとるわけやわ」

ブラック・ジャックなら少しだけわかる。ブラック・ジャックとピノコとキリコを知っている程度だ。いいよね、と言えるほど詳しくはない。けれど、読んでいる本の話題でブラック・ジャックが出る彼女なら、塩野くんは居心地が良かったのだろうな、と思ってしまった。

どっちが止めるでもなく、会話がおさまる。小笠原さんは立ち上がって、私の方へ1歩分体を寄せた。動いた拍子にその清らかな髪がなびいて、私の視線が釘付けになる。小笠原さんが私に指先を向けて、重く唇を動かし始める。

「心中ごっこに選ばれなかった委員長と、心中相手に選ばれなかった私。案外似てるような気しやん?」

私は何も言えなくなる。肯定しても、しなくても、小笠原さんは距離を詰めて来るのがわかっているからだ。案の定、目に光を宿した小笠原さんは私に優しく笑いかけていて、心臓の辺りがずっと痛かった。

「委員長のことも教えてよ」

「あなたを許さないって言ってる女のことなんか知ってどうするん?」

「どうもせん。ただ、塩野くんのことをそんなに思ってた委員長のことが知りたい」

塩野くんが私の名前を褒めてくれたみたいな、優しくて綺麗な音だった。椅子から半ば転げ落ちるみたいにうずくまる。小笠原さんが咄嗟に出した「あ」という音にすら、塩野くんの片鱗を感じるのだ。途切れ途切れに小さく息を吐く。

まだ好きでいていいんかなって塩野くんに聞きたいけど、聞いたって塩野くんは教えてくれへんのや、と思ったら涙が出た。顔を上げた時、同じように顔をぐちゃぐちゃにした小笠原さんが、私の頬にハンカチを押し付けた。




3年になった私は、委員長とクラスが離れた。塩野くんのことがあって、語り合ったとは言え、私たちがつるむことはなかった。だから、別に問題はないが、気を許せる人がいる教室が恋しかったりする。

「もういつの間にかピノコと同い年になったんや思うと、年取るの早いやんな」

「……他にいい18歳の例えなかったん?」

「うん」

ピノコが18歳なのは自称で、戸籍上は1桁だけれど、18歳の例えであることには間違いないと思う。本当に呆れたみたいな顔の委員長は「バカみたい」と笑った。バカとは何だ、と言おうかと思ったけど、委員長の言葉には悪意がなかったから止める。

「鈴子は誕生日1月やもんね。当分私が年上なんやから敬って欲しいわ」

「何それ。淑乃様〜とでも言うて欲しいん?」

「思ってた方向ではなかったけど、案外悪くないからええや」

「8ヶ月先に生まれただけやん」

「そうやね」

委員長が、その細長い手足で、私の先を歩き出す。

「鈴子の身長、ほんまに嫌やわ」

「ほんのちょーっと、私より15cm低いだけやろ。大丈夫、かわいい、かわいい」

「喧嘩売っとる?」

中学3年生の頃、身長が伸びなくなった157cmの私には、174cmの身長を誇る委員長と並ぶのが嫌になることがあった。去年から8cm伸びたと言うのだから、土台が違うのだろう。

「バレーボールってほんまに背ぇ伸びよるん?」

「私より高い子おるよ。でも確かにずっと飛んどると伸びるんやろね」

まだ伸びしろのある私が身長を伸ばして160cm代になるより、160cm代だった鈴子が170cm代に伸びる方が、ハードルはとうに高い。運動神経が抜群に良ければ考えたが、バレーをやる気には到底なれんな、と私は思う。

「淑乃もバレーボール部来たらええのに」

「今は部活はええの」

「ほうか」

委員長は、私と違っていつも膝丈の靴下を履いている。バレーボール部に入りだして、傷が絶えないから守るためにも長い靴下を選んでいると言っていたけれど、私はそうはなれない。私は靴下は短いものに限るというモットーがあるのだ。笑われそうだから、委員長には絶対に言わない。

「鈴子は、もう鈴子でいられるようになったんやね」

「……まあ、私は多代鈴子たしろりんこやけん」

鈴子の声は、暗いトーンでは決してない。自分のことじゃないのに、塩野くんのまいた種が芽を出したようで、自分のことより嬉しくなる。

「すずかとか、りんかって呼んどったのが懐かしいわ」

「あの時は、鈴鹿サーキットやん、って真顔で言われて我に返ったわ」

「でも、すずかって言ったら鈴鹿サーキットやん」

「それ関西圏だけやけんね」

鈴子との思い出も、塩野くんのことも、自分のことも考えている私の頭の中は、ずっとうるさい。今、委員長と当たり前のように話せることも、私には大きいのだ。

「ハンバーガーでも食べに行かん?」

「あれ、しゃぶしゃぶやなくてええん?」

「放課後にしゃぶしゃぶ食べる女子高生がどこにおるんやって」

「ハンバーガーとしゃぶしゃぶはそんな変わらんと思うけど」

「いや、変わるから」

私と塩野くん、委員長と私を隔てる境界線はどこにあるのだろう。今でもたまに思うことがある。塩野くんの隣にいるのが塩野くんなら、塩野くんは死ななかっただろうか。交通事故であることを理解しても、そう思わずにはいられない。私が何かを言ってしまったせいで、塩野くんが飛び出して、交通事故に遭った可能性だってなくはないのだから。鈴子に言えば笑われるだろう。それでも私だけは塩野くんのことを抱えて生きるのだとずっと前に決めた。

私の顔をのぞきこんで「帰ろや」と委員長が笑った。

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