夏と香水

あげもち

夏と香水

「ね、この後遊びに行こうよ」


 窓の外の青。クーラーの効いた教室。


 真っ白なノートの上にシャープペンを転がすと、前の席の背中を人差し指で突いた。


「……」


「おーいー、無視すんなよー、トモ〜」


 そう、背中をバシバシと叩くと、小さくため息を吐いてから、彼—— 村上朋一むらかみともかずはゆっくりと振り向く。


「……何言ってんだ、俺ら受験生だぞ」


「え〜、その前に中学生だよ? 夏休みだよ? 青春だよ!」


「はいはい、アオハルアオハル〜」


 そっけない反応に、私は頬を膨らませる。


 私には理解できなかった。なんでトモは中学生最後の夏を楽しもうとしないのか。だって勉強なんていつだってできるし、そもそも『√』とか、『因数分解』とか、そんなものが一体、将来のどこの部分に必要になってくるのか分からない。


 だから、そんなもので推し測れてしまうような、高校受験にそこまで一生懸命になれる幼馴染、村上朋一を私—— 東雲柚奈しののめゆずなは理解できなかった。


「んー! トモのわからずや!」


「受験に落ちるぐらいなら、わからずやで結構だ」


 そう、きっぱり言い放つと、トモは私のノートを見て口を開く。


「何も書いてねーじゃんか」


 何しに来たんだよ。とため息を吐き出した。


 そんなトモの反応に、思わずぎくりとする。


 黒板の『点Pは一定の速度で動くものとする』 という文字を見て、視線をノートへと落とす。迷惑だから動くな点P……。


「……だって、分からないんだもん」


「聞けよ、先生に。時間勿体無いだろ」


「あの先生嫌い」

 

 お前なぁ……。と息を吐き出すトモ。


 分かってる。先生の毛嫌いで無駄な時間を過ごしている場合じゃないことなんて。でも、うまく説明できないけど、本当に勉強がしたくないんだ。


 今の一瞬一秒。もう一生戻らない青春が、白い紙の上に芯を擦り付けた計算と答えでしか残らないって思ったら、筆が進まなかった。


「……まぁユズの気持ちもわからんでもないが」


 そう呟き、トモは自分のカバンからチョコボールを取り出す。


「ほら、手だせ」


 えっ。と驚きつつも手を出すと、振った箱からチョコボールが2つ落ちてくる。


 彼もチョコボールを噛み砕くと、「でもな」と続けた。


「とりあえず受験には受からんと、後味悪いだろ?」


「……うん」


 彼からもらったチョコボールを口に放り込む。


 チョコの甘さの次に、口の中でナッツが香った。


「俺流で良かったら教えるから、とりあえずペン持て。んでユズが満足したら帰りスタバ寄ってこうぜ」


 椅子をこちらに向けて、トモが座り直す。


 白くて綺麗な手が視界に入って、どきりとする。


 彼の顔が近くになって、思わず早くなる鼓動。熱を帯び始める頬。


「……ありがと」


 そう呟いて、トモが書き始めた図形に目を向ける。


 あぁ、ほんと、こいつと来たら……。


 頬を掻くふりをして、手首を鼻に近づける。


 ——香水つけてきたことに気づいてくれるかな。


 そう考えるだけで、常に一定の速度で動く点Pを追うことはできなかった。





「トモ、いつもブラックだね」


 私がそういうとカップから口を離し、まぁな、と続ける。


「安いし、途中で味変できるから好きだな」


「へー」


「自分から聞いといて、何でそんなに興味なさげなんだよ……てか、お前こそいつも同じやつじゃん」


 その、何とかフラペチーノ。と言いながら私のカップに目を向ける。店員さんが書いてくれた『thank you!!』というメッセージが、何だか良いことがありそうな気がして、嬉しかった。


 前髪に触れながら、私は口を開く。


「可愛い女の子は、砂糖とスパイスと素敵なものでできてるんだよ」


 そう言って、ダークモカチップフラペチーノを吸い上げる。


「……太るぞ」


「んぐっ!……けほっけほ……」


 我ながら、すごい咽せ方をしたと思う。


 喉の奥の方に入った氷の粒が溶けて、じんわりと甘さが滲み出す。


「大丈夫か?」


「……今だけは心配されたくない」


 確かに、最近お母さんにも『なんか太った?』って言われたばかりだ。でも、まだ二人目。仏の顔も三度まで、アウトも三つまで。世の中はスリーアウト制だ。


 まだ大丈夫。まだいける。


「おう、なんかごめん?」


「幼馴染ポイントがあるから、それで許す」


「そっか。ちなみに何ポイント貯まってて、今のでいくつ減ったんだ?」


「298ポイント貯まってて、今ので残り


「さりげにゴミ残して帰んな」


 そんなツッコミに、思わず吹き出す。きっと、こんなしょうもない会話の、たったワンフレーズに、私に思惑を感じてくれるのはトモだけなのだろう。


 小さく笑う私を横目に、そっと、カップに口をつけるトモ。


 そんな彼を見て、何だかしんみりとした。


「今年の夏が終わったらさ、いよいよ受験が来て、来年は別々の学校かぁー」


 テーブルに肘をついて、頬に手を当てる。


 カップから口を離すと、「そうだな」と静かにトモは言った。


 幼稚園、小学校、そして中学校と、約10年共に過ごしてきた彼と、来年離れ離れになる。


 いつも教室のどこか、いや、視界の一角にいたその顔は、もう来年にはそうではなくなってしまうのだ。


 いつも一緒に通った通学路も、いつもの教室も。


 いつも一緒だったから、「お前ら付き合ってんだろ」って言われて、嬉しかったあの放課後も。


 次、今日も暑いねって、袖をまくる頃には、もう彼はいない。


 そう考えると、何だか寂しくて、やっぱり、勉強なんてしてる場合じゃないなって。そう思ってしまう。


「まぁ、でも家近いし、連絡とって会うぐらいはできるだろ」


「……そーだね」

 

 ストローをゆっくりと吸い上げる。


 刹那、透明なカップから水滴が滴り落ちて、じんわりとコースターにシミを作っていった。




 

 ベットへと倒れ込む。


 ひんやりとした空気と、白い天井。


 ボフンと背中でスプリングが反発した。


「……」


 『8月』と大きく書かれたカレンダーへと目を向ける。その右下。『31』という数字を見るたびに、焦燥感に駆られて居ても立っても居られなくなる。

 

 それで、行き場のなくなった焦燥感はやがて、口から溜息として、吐き出されていくのだ。


 ……。


 きっと、思いの丈をありったけ。彼に伝えることができたのならば、この気持ちに追われることは無くなるのだろう。


 でも、だからと言って、そんな勇気はちっともなくて。


 その挙句の果てに、香水をつけて一人で咽せてる。


 ちょっとでもいい、トモに意識して欲しくて。遠回しにも気づいて欲しくて。


 でも、そうやって足踏みしかできない自分に嫌気が差して、学生の本業である勉強が手につかなくなってる。


 ほんと、我ながら呆れるなぁ。


 その瞬間、枕元のスマホが鳴ってびくりと跳ね起きる。


 着信画面には『トモカズ』と表示してあって、思わずどきりとした。


 どきどきと緊張した指先で画面をスライドする。


「もしもし?」


『悪いな、今大丈夫か?』


「うん。どうしたの?」


 私がそう聞くと、電話の向こう側でモゴモゴと、何かを呟く。


「ん? なに?」


『いや、特に用があるって訳じゃないんだけど、その……』


「珍しいね、用がないのにトモから電話なんて。もしかして告白?」


『……』


 ……え、何で黙るの?


 画面越しの鈴虫の声に、心拍数が上がっていく。


「……トモ?」


 彼の名前呼んで考える。もし、本当に告白だったとして、私はなんて返事をしたら良いんだろ。


 じんわりと頬に熱がこもる。心臓がうるさい。


 ……。


『あ……明日も補習終わり、スタバ……寄ってこうぜ』


「……うん」


『それだけ……』


「そっか、それじゃ、また」


 そう通話を切ろうとした時、『待った』そんな声が聞こえてきた。


 そして、



『ユズ、もしかして香水つけてた?』



 そんな、言葉がスマホのスピーカーから、私の耳に届く。


『……ごめん、やっぱ何でもない。また明日』


 一方的に通話が切られる。


 『通話時間 5分32秒』そんな表示の画面のままのスマホをもつ腕が、だらりと脱力した。


 トクトクと脈打つ心臓と、じんわりと熱くなる目頭。


 どうしようもない高揚感と、むず痒さに枕に顔を押し当てる。


 言葉にならない叫び声を全て枕にぶつけて、足をバタバタさせた。


 ——好きって伝えるなら今だった。今だったのに……。


 悔しさと、情けなさで足をバタバタさせて、湧き出る嬉しさで枕をぎゅっと抱き締める。そして、


 ——また明日。


 彼のその声を思い出して、私は鼻を鳴らした。


「トモがいるなら、勉強頑張ってみようかな……」


 時刻は深夜11時。


 電気を消して、ぼんやりとした天井を眺める。


 真っ白なノートと、点Pの攻略法。


 ——明日こそは。そうシュミレーションしながら目を閉じたベットの上。


「また明日。おやすみ……トモ」


 刹那、甘い香水の匂いがした。


 



 


 

 


 


 

 

 


 

 


 




 



 



 


 

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夏と香水 あげもち @saku24919

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